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真言宗第105番
霊場
光明山
遍照寺
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住所 : 笠岡市笠岡5930
開基:白鳳時代
本尊 五大明王
西の浜に光明山遍照寺がある。同等は鎌倉から南北朝時代にかけて、この地方を支配していた豪族・陶山氏が笠岡に城下町を築くに当たり、吉田村にあった司寺を仁王堂町に移転し門前町として発展を図ったとされる由緒ある寺院である。昭和五十二年都市計両により仁王堂町から現在地に移転したが、国指定重文の多宝塔はかつての境内地に残され、その歴史をとどめている。
(ヘンジョウジ)
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貞享三年(1686)に住職である秀遍法印が記した縁起によると、白鳳期(七世紀後半から八世紀初頭)に一」の国の大守笠臣の氏寺として吉田村に創建されたと伝えている。元弘年間(1331ー34)笠臣の遠裔・陶山藤三義高が笠岡に城下町を築くに当たり、この寺を町の中央に移転し門前町として発展を図ったという。 当時は山内に五ヵ寺の塔頭、二十四力寺の末寺を数え、嵯峨・大覚寺派の中本寺としてその勢力を誇っていた。また応永十九年(1412)には、当時の衆僧らが京都・北野天満宮に「切経」(国重文)を奉納するなど、都との交流があったことを伝えている。 氷享年間(1429-41)には寺領百五十貫が寄せられ伽藍の一大修復も行なわれ、慶長九年(1604)に備中代官・小堀政次が寺領として三十石を寄進するなど相応の寺格を有していたことが窺える。
多宝塔は慶長十一年(1606)の建立。県下に所在する多宝塔としては最古の建造物で、西日本全体でも桃山時代の仏塔の遺存例が少なく貴重な存在である。 一方、県指定の重文となっている梵鐘は総高九十一センチ、口径五十五センチ、重さ百六十九キロの鋳青銅製で室町時代鋳造の和鐘。銘によると永享四年(1432)の鋳造となっている。この他、同寺には鎌倉時代作の「弘法大師画像」一幅(東寺伝来)や徳川家康公の木像などが残されており、笠岡地方の歴史と文化を知る上で貴重な存在の寺院となっている。
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住 所:笠岡市笠岡5930
鐘楼門前に駐車可
(許可は別途)
本堂shot⇒ClickHere
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真言宗第64番霊場
光明山吉祥院
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住所 : 笠岡市笠岡25
開基:寛永八年秀算大和尚
中興:安永六年秀英住職
本尊 毘沙門天
七福神の一つである毘沙門天のお使いが「むかで」
本堂内陣の欄間中央には、創建当時のものである大きな「むかで」の絵の額が掲げられている。「お参りの方がお足(お金)にご縁がありますように」という願いが込められている
(キチジョウイン)
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吉祥院は、門前町笠岡の中心となっていた光明山遍照寺の塔頭寺院としてその北側に位置していた。五・一五事件で暗殺された)犬養毅首相(1855-1932:岡山出身)が小田県庁の書記として勤めていた頃、この吉祥院に下宿していたことで有名。寛永八年(1631)に、秀算大和尚によって開創され、その後伽藍は安永六年(1777)に、実眼住職によって改築された。
また、昭和五十一年の笠岡駅前土地区画整備事業により、遍照寺をはじめ塔頭寺院のほとんどは、観照院を残して、中心部から郊外に移転することになった。吉祥院も同年に先陣を切って、現在の場所に移転してきた。
本堂西側には、閻魔大王像を安置する閻魔堂がある。地獄を司る閻魔大王を祀っているのは全国的にみても珍しい。江戸時代後期から毎年八月十五曰に執り行なわれている閻魔祭は多くの参拝者で賑わっている。(この寺院が繁昌するのは地獄へ落ちる人の数が年々増加の傾向があるからだという統計があるそうな。。。。ウソです。また、閻魔祭の当日は尺八演奏披露があるという。。。これはホント)
(☆2010/03/01 吉祥院さんからメールを戴きました。)「吉祥院の閻魔祭の尺八演奏は最初の年だけでした。 昨年は琴の演奏をお願いしました。
今年はエレクトーンをお願いしようと思っています。」
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住 所:笠岡市笠岡25
境内まで車にて乗入可
駐車可(許可は別途)
訪問shot⇒ClickHere |
真言宗第63番霊場
佛松山
海蔵寺
大仙院
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住所 : 笠岡市笠岡5240
開基:元禄五年政範上人
中興:大正三年正木義仁住職
本尊 大仙智明権現
大仙院の本尊は大仙智明権現で、元禄五年(1692)に政範上人によって創建された。
笠岡市の駅前整備計画では
駅~大仙院までの道路を
「参道祈りのゾーン」として
歩行者用道路として景観と
快適さの面から整備した。
(ダイセンイン)
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古くから笠岡の人々は、伯耆大山(鳥取県)を「大神山」と呼び、四国の石鎚山と同様に霊山として信仰してきた。 笠岡に住んでいた橋野與左衛門(後の政範上人)は、若い頃から仏門に帰依し、伯耆大山の大仙智明権現を信仰していた。與左衛門は二十歳の頃、大病を患い、曰頃信仰していた大仙智明権現に祈願し助かった。そこで霊山・伯耆大山にお礼参りをし、大仙智明権現の御分体を受け、笠岡に持ち帰り勧請奉祀した。
笠岡では、「人は死んだ後に御霊は大山に帰る」と考えられ、先祖の霊に会い御霊を弔うために伯耆国に参詣していた。しかし、伯耆国が遠いため、参詣できる人が限られていたが、政範上人が大仙智明権現を持ち帰ったおかげで近郷の多くの人が先祖の供養を笠岡の大仙院にお参りすることで叶えることができるようになった。 大仙院は創建以来、備南地方の総菩提所として信仰されてきた。また、伯耆大山に放牧場がある関係で旧暦二十四曰の例祭時に牛、馬の市が立っていた事などから、牛、馬の守護神としても尊崇されている。現在も、旧暦の二十四曰の縁曰には〃かぶとがにびっくりいち〃という市が立つ。
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住所: 笠岡市笠岡5240
駅から参道:「祈りのゾーン」
境内まで車にて乗不可
駐車も不可
訪問shot⇒ClickHere
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真言宗第65番霊場
光明山
観照院
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住所 : 笠岡市笠岡1948
開基:天正年間温智
本尊 虚空蔵菩薩
昭和五十九年の区画整備でほとんどの寺院が周辺に移転を余儀なくされた中、観照院は墓地の一部を移転しただけで、寺院自体は移転を逃れることができた。
駅から県庁跡へ直進、国宝に指定されている遍照寺多宝塔のすぐ隣に観照院がある。
(カンショウイン)
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観照院は天正年間(1573-1593)に温智によって建立されたと伝えられる。当時、遍照寺の東に位置する観照院の寺号は、「東」の文字が入っている東照院だった。元和二年(1616)に徳川家康公が死去。そして曰光に東照宮が建立されることになり、その曰光・東照宮からの勅号を受けて、元和二年に観照院に改称している。その後、火災で幾度か焼失。昭和十三年に再建ざれ現在に至っている。
観照院の本尊は、知恵と財宝の広大無限なることを教える虚空藏菩薩。平地では珍しい本尊とのこと。市街地にあって笠岡の教育、商業などの振興を温かく見守っている。
また、観照院近くには、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』を翻訳したことなどで知られる森田思軒の生家があり、同寺には写真の原版など貴重な資料が遣されている。 観照院は笠岡八十八カ所霊場の第五番札所にもなっている。
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住所: 笠岡市笠岡1948
門前まで車にて乗入可
駐車も可2~3台 |
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真言宗第66番霊場
光明山
南昌院
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住所 : 笠岡市笠岡6002
開基:貞享年間以前
開山:元禄二年弘俊法印
本尊 薬師瑠璃光如来
昭和五十九年の区画整備で市中から移転。笠岡市の中心部を南北に走る県道井原矢掛線を市街地から少し北上すると西側に笠岡中央病院がある。その角を西に折れて約九○○メートル(大型車通行不可・相生隊道西口を南へ八○○メートル)程登った高台に光明山南昌院がある。広い墓園の真中に新くて大きな伽藍を構えている。
(ナンショウイン)
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笠岡の町は、白鳳時代に遍照寺を創建したといわれる大守笠臣の遠裔にあたる陶山藤三義高が元弘年間に笠岡に城下町を築いた時から笠岡は南昌院を含み遍照寺の門前町として発展してきた。
南昌院は今から約三百年前の貞享年間(1684)に遍照寺南側に塔頭として、弘俊和尚によって開基されたと伝えられているが、最近の調査でもっと早い時期に創建されていたことが明らかになってきた。福山藩主水野氏の記録『水野記』(第十四巻)に
かって南昌院は慶長から寛永年間(1596-1644)頃には、東照院と呼ばれていて、その東照院は笠岡城主の陶山氏によって貞享年間よりもっと早く創建されていたことを示す記述が残されていることが判った。東照院という院号ともう一つ関係があるのが南昌院の寺紋である・徳川家の家紋と同じ葵の紋となっている。これは小田藩の代官・小堀新肋から譲り受け現在でも使われているものである。
南昌院の本尊は薬師瑠璃光如来。珍しい坐像(高さ約30センチ)で鎌倉時代の作である。まだ同寺は笠岡出身の曰本画家小野竹喬の母堂の菩提寺である。同寺は、笠岡八十八カ所霊場の第四番札所大日寺、笠岡西国三十三カ所霊場の第十九番札所になっている。また、平成五年秋に開創した中国楽寿観音三十三カ所霊場の第十一番札所になっており、境内南側には高き約三メートルの楽寿観音像が立っている。
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住所: 笠岡市笠岡6002
相生墓苑
門前まで車にて乗入可
駐車場いっぱい可
当寺HP ClickHere |
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真言宗第67番霊場
光明山
西明院
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住所 : 笠岡市笠岡4014-5
開基:
中興:江戸中期
本尊 阿弥陀如来
&愛染明王(伝)
昭和五十八年に区画整備で市中から上田頭へ転出。
県道井原笠岡線を北に約二キロ。東側の山手、笠岡市立西中学校の隣に、西明院がある。西明院の本尊は、四十八の誓願を持ってすべての衆生を済度するといわれる阿弥陀如来である。
(サイミョウイン)
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西明院の創建は不祥とされているが、その創建は古く、西山の麓(現在の正寿場町)に在ったと伝えられている。その後、江戸時代中期に、遍照寺の塔頭寺院として、同寺の西側に移転し堂宇を構えている。
そして、遍照寺とともに門前町笠岡の発展と、仏教興隆に寄与してきた。ちなみに、遍照寺を中心として南に置かれていたのが南昌院、北に置かれていたのが吉祥院、そして東側に置かれていたのが観照院であった。何れも山号は、光明山。西明院も含めてこの四ヵ寺は元弘年間(1331-34)に当時の笠岡城主陶山氏が城下の中心地に遍照寺を置き、門前町としての発展を計ろうと計画したのに伴い、近くに移転してきたり、新たに創建されている。また、この四ヵ寺以外にも近くにあった寺院が塔頭寺院や末寺となっている。
境内に桧皮葺の聖徳太子を祀る「太子堂」がある。兵庫県加古川市から下関市にかけての山陽道で太子祀りはここだけ。元来、建築関係の職人、大工・左官・建具屋・石工などからの信仰が篤く、昭和30年代までは毎年旧暦の正月二日の日に「太子講」が催されていた。太子堂のそばに88所第3番金泉寺と西国33観音霊場の第20番善峰寺の石仏が並ぶ。 西明院には、平安期の作である弘法大師御影や、江戸時代初期の作である五百羅漢図などの貴重な寺宝が伝えられている。
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住所: 笠岡市笠岡4013-5
門前まで車にて乗入可
駐車場いっぱい可 |
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真言宗第68番霊場
光明山
地福寺
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住所 : 笠岡市笠岡659
開基:室町中期以前
本尊 地蔵菩薩
地福寺の開創は、室町時代と伝えられている。その後、数百年を隔てて、江戸時代には、遍照寺の頭寺院となり、それまでの山号「吸江山」を改め、遍照寺やその他の塔頭寺院と同じ「光明山」と号している。 春には、山吹が咲き乱れ、山吹寺と呼ばれていた。 松尾芭蕉の師匠である宗祇が、福寺を訪れ、詠んだ俳句がある。
「山吹を心のいろかほとときす」
(ジフクジ)
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伏越でJRの踏切渡り大磯へでる。応神山の麓に光明山地福寺がある。
一般道路から山門につづく参道は石段になっている。
この石段には、室町時代末期から伝わるおもしろい言い伝えが残されている。
「石段の破片が不漁に効き目あり」 地福寺には、当時から〃魚の観音〃と呼ばれる小さな観音像が祀られていた。この観音像は、地元笠岡の漁師が網にかけ、海に帰したが再度網にかかり、また海に戻すが結局三回も網にかかった。その漁師は、観音像を持ち帰って地福寺に安置した。 この〃魚の観音〃は、地元笠岡をはじめ、遥か四国の漁師たちまでの篤い信仰を集めていた。不漁が続くと漁師たちは四国からでも願を掛けに地福寺に参拝していた。 そして、参拝した帰りには、地福寺の石段の端をかいで、持ち帰っていた。その石段の欠片を海に投入すれば不漁は止まる、と信じられていたからだ。不漁が続くと、地福寺の階段は、悪くなる一方だったようだ。
現在の石段は、昭和初期に築かれたものであり、端がかき採られた跡は残されていない。また、現在の地福寺から海までは遠いが、その当時は、寺のすぐ下まで、海岸線が迫っていた。
また、地福寺の本尊である地蔵菩薩も、すぐ下の海岸に流れ着いたといわれるものである。先に述べた〃魚の観音〃は、現在その本尊の体内に納められている。 |

住所: 笠岡市笠岡659
門前まで車にて乗入可
駐車場数台のみ可
訪問shot⇒ClickHere |
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真言宗第69番霊場
富岡山
月性庵
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住所 : 笠岡市富岡749
開基:慶長十一年月性尼
開山:明治四十年
智學恵倫尼
本尊 弥勒菩薩
富岡の應神山の東のはずれの中腹の高いところに墓地が見えてくる。大磯からつづく旧国道から左へ細い道を登っていくと富岡山月性庵にたどり着く。途中には、養牧場や養鶏場があり、牛舎や鶏舎が建ち並んでいる。
(ゲッショウアン)
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月性庵の創建は、豊臣時代の名残りがまだ存在していた江戸時代初期の慶長十一年(1606)頃とされている。 月性庵を開いたのは、木村長門守重成の生母・月性尼である。重成は、元和元年(1615)に大坂冬の陣、夏の陣で豊臣側について戦い夏の陣で亡くなった武将。 豊臣秀吉亡き跡、徳川家康の天下となったが、徳川と豊臣との間に再び戦が起こると察した重成は、母の身を案じて、当時重成の郎党だった仁科長次郎に命じて、月性尼を笠岡に移住させている。そして重成の母は、慶長十一年の遍照寺の多宝塔相輪上築の曰に当時遍照寺塔頭だった西明院で剃髪し、月性尼を名乗り、現在地の富岡に月性庵を構えている。 その後、約三百有余年を経て廃れ果てていた月性庵を中興したのが先代となる智學恵倫尼である。明治二十三年(1890)生まれ。三原市田浦町の植田新藏の五女で、明治三十四年に剃髪している。治四
十年(1907)に月性庵に入り、昭和三十九年七月二十一曰、七十五歳で入寂している。 その跡を承けて、昭和四十年九月十八曰に住職となった隆光住職は中興第二世ということになる。現在の建物は約五十年前、智學恵倫尼が再興したものである。
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住所: 笠岡市富岡749
門前まで車にて乗入可
駐車場3台程度
急勾配の山道、狭いし
向変え・離合困難 |
真言宗第73番霊場
小田原山
教積院
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住所 : 笠岡市有田1777
開基:元享三年勢真法印
本尊 聖観世音菩薩
広島県境近く坪生町との境界の山頂に小田原山教積院がある。
陶山郵便局の上手から池に沿って山道を登ると、山頂付近に静かな佇まいの伽藍が甍を垂れている。昭和六十年三月に開創された瀬戸内三十三観音霊場の第二十番札所で、巡拝者が絶えない。
春に咲く藤の花は有名。
境内に藤棚があり。
(キョウシャクイン)
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同院は元亨三年(1323)勢真法印によって創建された。勢真法印については伝承がなく不詳だが、山号の小田原山は、高野山の小田原谷に通ずるところがあり、勢真法印は祖風宣揚のため全国を行脚した高野聖の一人とも考えられ、この地に至って勢力を誇っていた武将・陶山氏の帰依を得て一宇を草創した。 有田地区には陶山氏と備後の南朝方、桜山茲俊が戦った古戦場や、陶山義高公を祀る陶山神社などもある。当時の教積院は、現在地より二○○メートルほど西の備中と備後を結ぶ間道の要衡にあり、陶山氏が備後を睨んで砦の性格を持たせたもので
あるともいわれている。 また、最近になって判明したことだが、境内の墓所には羽柴秀吉の備中高松城水攻めのとき、毛利方の武将であった高田豊後守の墓がある。高松城を守りきれなかった責任をとって、教積院で自刀。夫婦の戒名を刻んだ自然石がその哀話を伝えている。
しかし、この伽藍は約三百年前に火災で焼失し、現在地へ移転。さらに、昭和四十七年に再び火災に遭い山門と鐘楼堂を残して焼失した。第二十五世の法統を受け継いでいる現在の吉井住職により、本堂、客殿、庫裡復興を発願し、二年後には見事に悲願を成就した。 本堂の裏手には、曰清戦争の戦没者を慰霊するために勧請された西国三十三観音霊場の石仏群と、大原焼の高さ約三・五メートルの五重塔があり、静かな環境の中で追悼の遍路ができる。
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住所: 笠岡市有田1777
門前まで車にて乗入可
駐車場ゆったり
訪問shot⇒ClickHere
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真言宗
醍醐派、
醍醐三宝の直系
開扇山
法印寺
林光院
跡
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住所 : 笠岡市宮地
馬飼越道路沿い
開基:天正八年(1580)
または
天文八年(1539)
または
元亀元年(1570)
の諸説あり
本尊 不動明王
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伝承によれば、備中国浅口郡柏嶋の内、小山崎の城主だった中塚二郎兵衛季綱は、尼子・宇喜多軍により落城。その後は世を捨て僧侶になり笠岡の寺で修行(どの寺かは不詳)、してこの林光院を開いた。
元は浄心寺の前あたりに在り、寺の記録では文久年間(1861-64)にこの地に移転した。
境内には本堂と「最上位白玉稲荷大神」の建物があった。
本堂には「不動王明」像と「弘法大師」の座像があった。
白玉稲荷の天井は格天井でタテ8枚、ヨコ12枚、合計96枚の板に十二支の動物・花・鳥・人物などの絵が彩色で描かれていた。
描かれた記録はないが、明治初年ごろと思われる。場所位置は写真中央の三角地に建つ民家付近とおもわれる(未確認です→教えて!)。 |
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