鴨方藩陣屋跡
 鴨方往来に面し当時の遺跡は石垣と井戸だと云われる、現在は黒住教の教会。
訪問DATE: 2010 03 13

 <注>正面の石段を上らず左折すると左下の場面が展開する。左上の標識は道路反対側に設置されり(写真合成)。

「鴨方藩陣屋跡」「説明板」より
  鴨方藩は、岡山藩の支藩として一六七二年(寛文十
二)備中浅口・窪屋・小田三郡の地二万五〇〇〇石を与
えられ、新田藩として成立した。初代藩主は池田光政の
次子政言(まさこと)である。
 鴨方陣屋は、鴨方藩所領支配の現地の拠点(政務の場)
であったが鴨方藩主は岡山天神山(現県総合文化センタ
ー)にある鴨方藩邸で生活しており、二万五〇〇〇石の藩
としては簡素なものであった。現在は、陣屋の石垣・井戸が
わずかに当時の面影を残している。
 陣屋絵図には、表御門・溜長屋・御座敷・吟味場・御囲米
御蔵・牢番詰所等の建物が描かれ、屋敷は東西約五六・八
メートル、南北約三二・七メートルであることが記されている。
                  浅口市教育委員会
                  浅口市文化財保護委員会


 現在は黒住教の教会が建っている。
旧陣屋の敷地は黒住教と長川寺の敷地となっており、
町家公園が面するこの往来を鴨方往来と呼ばれる。
支藩の陣屋と岡山城下とを結ぶ往来がこの時代に整備
され、そのように呼ばれた。

2010/03/14 Created
 
 「鴨方往来」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 鴨方往来(かもがたおうらい)とは、江戸時代に岡山藩によって岡山城下を中心に放射状に整備された6つの官道の内のひとつ。
鴨方往来の他に、金毘羅往来・松山往来(備中高松・総社・美袋・高梁 )・津山往来(岡山・金川・福渡・弓削・亀甲・津山)・牛窓
往来(岡山・益野・西大寺・牛窓)・倉敷往来(岡山・牟佐・町苅田・周匝・林野=倉敷)などを整備した。
鴨方往来の起点は、岡山城下の栄町仙阿弥橋(岡山城三之曲輪:現在の表町2丁目天満屋付近と推定され、当時は「町合所」が
おかれていた。三之曲輪には西国往来が南北に通り、いわゆる城下の中心地であった。)を起点に、庭瀬、生坂(生坂藩/岡山新
田藩)付近、長尾(新倉敷駅北地区)、占見(金光)などを通って鴨方に入り、出雲街道と連結する商港でもあった笠岡などを結んだ。
庭瀬までは「庭瀬往来」とも呼ばれた。また途中までは金毘羅往来と重複していた。


位置図: 浅口市鴨方町鴨方

 <浅口市内サイト内・リンク>

  鴨山城趾のぼる    →  ClickHere
  清瀧山長川寺     →  ClickHere
  鴨神社          → ClickHere
 
池田藩寄宮施策    ⇒ ClickHere
  
  青佐山台場築造   ⇒ ClickHere
  

幕末動乱(江戸幕府の攘夷国防施策と岡山新田藩の対応)

 文久三年(1863)九月、幕府より岡山藩に塩飽および備中海岸守備の命が下った。同年十月、主藩より鴨方藩へ備中海岸へ砲台築造の命が下った。鴨方藩では既に
七月くらいから青佐山に台場築造の計画をおこなっており、十一月には完成となった。文久三年十一月九日、鴨方藩主池田政詮(まさのり)が現地検分し試射をおこなった。
そして十一月十五日には主藩から池田茂政(もちまさ)を迎えて台場を案内、本藩主の承認を得た。
また鴨方藩郡奉行矢吹龍平が非常時の備えとして農兵隊の編成を進言し、屯所として鴨方陣屋が設けられた。増築にあたった責任者は吉田舒左衛門、彼は台場増築にも当
たった人物である。なお鴨方藩陣屋の完成にあわせて岡山藩より二年も早く農兵隊(炮隊、陣屋手先組、気節隊など)が編成された。なお岡山新田藩は明治元年になって
から鴨方藩を公称した。                                                                  「図説井原・笠岡・浅口の歴史」2009年刊より


池田氏系譜『岡山県の歴史』より

 池田氏の遠祖は清和源氏の後裔との説あり。もともと美濃国(岐阜県)池田荘に居住し池田を氏を名乗る地頭的な土豪であったようだ。岡山藩主池田光政より九代さきの教正は、
小楠公正行の遺腹の男であるといわれる楠木氏の血筋をうけているとする説(楠胤説)がある。教正から五代目の恒利の妻は養徳院で、天文五年(1536)織田信長の乳母となって
厚遇され、女丈夫として有名である。その関係で子信輝(藤人と号す)は幼少から信長に仕え、かずかずの戦功をたてて一方の侍大将となり、そののち累進して天正十一年(1583)
には、美濃国大垣に在城して約一三万石を領し、翌年の長久手の戦いには秀吉に味方し、激戦のはて長男之助ともろともに戦死した。

 信輝の第二子輝政は、天正十八年に一五万二〇〇〇石を領して、吉田(豊橋)に在城して吉田侍従と称した。慶長五年の関ガ原の役には徳川方に属して忠勤をはげみ、その恩賞
として播磨国(兵庫県)五二万石の大名になって姫路に在城した。文禄三年(1594)家康は、輝政の後妻に自分の第二女富子(小田原後家といわれた)を輿入れさせ池田家との姻戚
関係となった。一方岡山では城主小早川秀秋の死後、慶長八年輝政の第二子忠継に備前一国が下賜された。これが池田氏による岡山藩領有の発端である。
忠継は生母が富子(良正院)であるから家康の外孫にあたり、そのため非常に優遇されて備前を賜わった。当時、忠継は幼少五歳であったので、後見としてその兄利隆(光政の父)が
備前の国政をつかさどることになった。利隆は同年三月岡山に入城し、慶長十八年六月まで前後約一〇年間岡山藩政を担当した。

 姫路藩主輝政は慶長十八年(1613)正月に波潤の生涯を終えて五十歳で死去した。そのとき、長男利隆は宍粟・佐用・赤穂三郡を除く播磨一三郡で約四二万石を、次男忠継は備前
一国と上記三郡を合わせて約三八万石を、三男忠雄はいままで通り淡路(兵庫県)約六万余石を、それぞれ領有することになった。したがって、忠継は姫路から岡山へ移り、利隆は姫
路へかえった。ところが、元和元年(1615)岡山藩主忠継は十七歳で死し、あとつぎがなかったので弟忠雄が岡山城主となり、播磨三郡は輝澄・政綱・輝輿の三人の弟がそれぞれ分与
された。なお、忠雄は備前二八万石のはかに、忠継と相前後して死んだ母富子の化粧料であった、備中浅口・窪屋・下道・都宇の四郡の内をも合わせて領有することになり、ここに岡山
藩の領知高三一万五二〇〇石が確定したわけである。因みに、富子・忠継の母子の死去をめぐって、世にいわゆる毒饅頭事件の伝説がのこされている。

 さて、姫路藩主利隆は元和二年に死去したので、当時八歳であった子光政は一たん遺領をついだが、翌三年年六月、播磨は中国の要地であるから城主が幼少では不都合であると
の理由で、因幡・伯耆両国(鳥取県)三二万石に減封して移された。いっぽう岡山藩主忠雄は寛永九年(1632)四月痘瘡を病んで死去し、その子勝五郎(光仲)が幼少三歳であったので、
幕府は、備前は「手先」の国であるから領主が幼少では叶わぬとの理由で、ここに従兄弟同志の問に、備前と因幡・伯耆両国との国替が行なわれることになり、光仲は鳥取へ、光政は
岡山へそれぞれ移封になった。
以上が、慶長八年池田忠継が岡山藩主に任ぜられて以来、寛永九年一族の池田光政が岡山に移封されるまでの経過である。

 光政は寛文十二年(1672)六月に隠居して、長男網政が家督を相続したが、このとき、次男信濃守政言(まさこと)に備中領分の新田二万五〇〇〇石を、三男丹波守輝録(てるとし)に同
じく1万五〇〇〇石を、それぞれ分知(分地)することを許された。信濃守への分知は浅口・窪屋・小田の諸郡内の新田であって、貞享元年(1684)幕府から領地の朱印状を下されて、支
藩としての鴨方藩が成立した。一方、丹波守への分知高は本藩の朱印高の内に含まれるもので、やや性格は異なるが支藩としての生坂藩ができたわけである。しかし、この両支藩とも
に独立性はうすく両支藩主とも岡山城下に在住し、領地内の中心地である鴨方村(浅口郡)生坂村(窪屋郡)に、臨時の役所をおいた程度であり、おもな政治は本藩にたより、藩士も本藩
からつかわされた附人などから成っていた。