寄島町『尾焼のいけん堂』(池のお堂)四ツ堂と石碑群
 
小野幸七甚十郎之碑  訪問:2010/12/25
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2010/12/25 競馬神事宰領の碑を訪ねる
 (写真右上)寄島町の尾焼という地区の大池の土手に火の見櫓が立っている。その櫓の下に見えているのが四ツ堂と一群の石造物である。(写真右中央)
そして問題の碑は上の写真で四ツ堂の右に見える自然石の碑である。(拡大した写真が右下段)


表 小野幸七甚十郎之碑                 <その勝手読み下し文>
   此士夙好武其齢當三十有六之時           此の士はつとに武を好み、その年三十六なった時
   従池田忠継公出陣于大阪之役而           池田忠継公に従い、大阪の役に出陣し、
   以其赫々武功賜感状観世音菩薩           その赫々(かくかく)たる武功を以て、感状と
   金像武器等諸品並允許大浦神社           観世音菩薩金像、武器などを賜り、並びに大浦神社
   競馬之宰領也                       競馬神事の宰領を允許(いんきょ)さる也。
   寛文五年六月二日歿                   寛文五年は1665年、死没よりの逆算で天正7年(1579)の生まれとなる。
   享年八十六                        大阪之役=通称では大阪冬の陣、慶長19年(1614)数え年で36才となる勘定。
裏 小野家建立 世話人部落中               建立年月日などナシ

 この碑文の重要点は、
 1-大浦神社の競馬神事の馬当番株は現在最も古い記録が寛延四年(1751)の「改定版競馬定め書」なので、この碑文の宰領職を賜った記録として140~150年
   遡ることとなる。
 2-大浦神社競馬宰領とは如何なる職名なのか。
   株当番とは別の総括責任者の役割を連想させるが、この役を藩主が下命しているのは当初は競馬費用を藩負担であったという傍証となる資料。
 3-競馬神事の起源は大浦神社由緒によると、永禄二年にこの地に川之江から移り住んだ青佐山城主細川道董が定めたとするが、関ヶ原合戦の後、岡山藩は
   小早川を経て池田支配となるが、池田藩になってより競馬が行われていたことがわかる。
 。。。。。。。
 ただし、この碑文には書かれた年号が明記されていない。
 また、大浦神社という神社名称は明治二年以降に八幡神社から改名されたもので、碑文で大浦神社という神社名称が使われいる点から創文は明治以降と思わ
 れる。小野家は現在この地区に一軒あるだけだという。
 詳しくは末裔の方から聞き取り調査が待たれるところであろう。(2010/12/26)

『寄島風土記』(s61.11.03刊行by寄島町文化財保護委員会)
 「盆月の行事「茶堂」について
 尾焼部落には、何百年も続いている盆月の行事「茶堂」がある。
 これは尾焼の大池のお堂で盆月の間、部落の者3〜4軒が組になってお接待をする。このお接待が他地区と変わっているのは、接待を受ける人が我先に他人を押しのけてで
 も多くの物をもらうほうがいいお接待であるとされる。昔、部落の人がこういうお接待は行儀が悪いというので、品良く行列を作ってもうらうことにしたら、たちまち伝染病が流行った
 ので、あわててもとに戻したということである。」
 <註:小野甚十郎碑についての説明なし>
 別のページにはこんな記述がある。
 「細川道董が青佐山、竜王山の城主であった当時、国頭に国頭東五郎という軍馬徴達役?がいたので国頭という地名が生まれたと伝えられる。
  昔から大浦神社競馬神事の宰領は国頭が担当し、柴木に神馬用の神田があって国頭田とよばれていた。」
 この記事を読んで思ったのは、
 大浦神社、当時は八幡神社の競馬神事の宰領職なる者は領主から任命され、神事と神馬を養うための費用田として神事田の運営を任されていた。
 宰領はこの田で稲を作り、費用を捻出し、各株主たちに配分をおこなっていた。宰領は領家・地頭家それぞれに一名世襲で任命された。神田もそれぞれにあったと思われる。
(2010/12/28)
2011/01/12 再度の訪問 ⇒ 小野家を訪ねた。【写真はご先祖の五輪塔】(2011/01/15記)
 尾焼地区の鉢山裾野一帯からは鎌倉,室町,安土桃山,江戸期の土師器が出土している。小野甚十郎氏の小野家は一軒あるのみ、この日は三人でお邪魔した。小野さんは初対面のわれわれを快く出迎えてくださった。小野さんの話では、慶長年間の小野幸七甚十郎小野姓であるが、もともとは坂本姓だそうで、坂本が絶えそうになって里庄に嫁に行った娘が後を継ぎ小野姓になった。400年以上前こと。小野さんは、昭和21年に小野家に嫁に入り今年で64年になるとのことだった。嫁入りしたときお堂の石碑はありました。また主人から生前に聞いた話では、小野家の財産は土地などが結構あったようで、金の仏像は何時の時代にか盗まれた。またお堂も当初は小野家の管理だったが部落へ寄付したもので、つい最近、あのお堂は改装したばっかりで、大坂から運んで据付たものだそうだ。宰領職を小野家が坂本家へ譲ったのは古文書など一切残っていないので、はっきりとはわからない。自宅の東側に坂本家の墓所があり、先祖墓の五輪塔が残り、案内しましょうと見せていただいた。寄島町史にはこの五輪塔は掲載されているらしいが、未確認。 現在は坂本家の墓所に祀る先祖墓群
2011/01/21(Friday) 三度目の訪問 ⇒ 坂本市松氏を訪問(2011/01/26記)
 大池の畔に車を駐めた。お堂の脇に案内板があって、そのタイトルは『御宅いけん堂の里 尾焼』と書かれてい
た。「よりしま地名考」によると、『尾焼にはもと【御宅(おやけ)】と言われる家があって、藩主等が来られ
るとお茶を献じていた。御宅ではあまりにも畏れ多いので「尾焼」と改めたといわれる。(中略)またこの地区
には、箇市・小別所という地名が残り、五輪塔・屋敷跡の遺構などから考えて、平安時代よりもっとさかのぼる
かも知れない。』また、「竜城院過去帳」によれば、享保元年(1716)に尾焼が出てくるようだ。
池から山の斜面を登った見晴らしのいい処に坂本邸があった。この字名が箇市(かいち)で写真左のとおり。
「よりしま地名考」によると、カイチとは集落を意味する古語で、豪族の屋敷村。垣で囲んだ集落や屋敷、また
は田畑を「垣の内」=カイチという。カイチの成立は古くは七世紀から近世にまで及ぶ。ここには大きな屋敷跡
の石垣が残りっている。現地まで足を運び、屋敷跡石垣を見た。先般訪ねた五輪塔の裏手にあって削平された方
形の盛り土に石垣が残り、住居跡と見られる処は孟宗竹が一面に茂って藪になっていた。
 この日おじゃました坂本さんは元寄島教育委員長を勤め、寄島町史・寄島風土記・よりしま地名考などの地元
関係書籍編纂に直接携わった経歴をお持ちの方で、齢九十とは見えない矍鑠として応接してくださった。
領主をお接待するというこの地区の伝統は大浦神社の祭礼の時、尾焼地区の役割として社の西に幕を張ってお茶
を献じて祭礼参加者・参拝者に接待する行事をおこなってきたが、昭和五十年代には出費のみが嵩むので止ま
った。小野家が受領したと伝えられる観音金像は池浚えの時、さる人が拾いあげていまでもお祀りをしている。
この像は高さ一寸五分(4.5cm)の木造に金剛鍍金をした観世音菩薩の懸け仏で、わたしが現役の頃に、仏
像年代鑑定を専門機関に依頼した結果、室町時代の制作であることが判明した。かけ仏さまは、引き出しに入れ
ていた。すると仏様が外へ出たいと言われ、お出して観音堂の普請をはじめた途端、その家の病気もなおり皆驚
いたとという逸話が伝わっている。坂本邸からの帰り道にこの観音堂へ寄ってみた。(写真左)
観音堂の間口は一間ほど、祭殿は畳敷きの立派なもの。ご本尊は一寸五分の木像仏で、神々しいお姿だった。
 

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