大島中から分離した柴木周辺の散策
昭和30年の市町村合併ににより柴木は寄島町に編入
☆2010/01/10 Sunday 大島公民館長に案内をいただいた
「大島略記」(s12年 黒住清氏著)
奈良~平安時代の遺跡に属する骨蔵器のある村内出土箇所は、
柴木茶臼山西南麓 此地に散在。
そして、正頭王屋敷付近 此地に散在している骨蔵器は平安末期に属するものであろう。
その他、竹田の城山等にあるが、前記の時代につぐものと思はれる。火葬は荼毘とも云う。柴木の茶臼山はその転訛であろう。
此時代の末期に初めて小米石の五輪塔が起った。此種の五輪塔は村内にも所々に散在している。
即ち柴木・山代・上湯舟・石砂・原などが主な集積地である。
大島中村鎮守「河神社」の由緒書きをみると、当初はここ柴木に勧請創設されている。
『この社は永禄元年(1558)9月16日に、同村柴木山麓の天台宗石門山(いたぐまやま)弥勒院長法寺(塔中12坊共廃寺本尊現明王院本尊)
に日吉(ひね)神社(祭主大山咋命)を勧請合祀し、鎮守山王宮として創建された。
寛文4年(1664)岡山池田藩は由緒を考慮し、社寺陶直前現在の地(大島中山根)に大島中村の産生神として遷座された。』
など、極めて旧大島地区の中核的な役割を担っていたのがこの柴木という土地であった。
自分で歩き、史蹟説明を聞くと柴木には弥生時代後半から平安後期までの歴史の跡が随所に残されていると感じた次第。
また、細川道董が青佐山から移り住んだ龍王山城の城主頓宮又次郎の居館も柴木から遠くない場所にある。
「太平記」に壮絶な死の場面が描かれた南北朝時代の武将である。この頓宮一族と柴木との関係も少なからぬものであったと思われる。
(頓宮叉次郎入道の墓と居館跡 ⇒ ClickHere)
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Information |
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福井山
壽
福
寺
龍
城
院
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龍城院 浅口市寄島町6881番地
天台宗 福井山壽福寺龍城院、 この北東100mの竹林に福井古墳(横穴式)あり
承和5年(838)慈覚大師の開基。本堂は宝暦9年(1759)の再建。天保4年(1833)・大正8年(1919)についで平成3年大改修が行われた。多くの寺宝を持つ由緒ある寺である。寄島町指定文化財 阿弥陀如来立像・阿弥陀如来坐像・壇像・法華経8巻・涅槃図あり。また 町内の桜・紅葉の名所です。(案内板説明より)
漢詩人笠原松雲 (頌徳碑が境内に建つ)大正7年(1918)歿
笠原松雲名は穆(むつむ)、通称直造と云い遂初と号した。松雲は別号である。弘化四年(1847)4月22日に生まれる。温順寡黙の人で自分に厳しく名利に走らず漢詩に長じた。15才で岡山藩校に学ぶこと2年、さらに元治元年(1864)に阪谷朗廬に師事をした。
歴史や詩文の造詣が深く、柴木築地の里に私塾松雲塾を開き、寺子屋もかねた。地元の塾生38名、他六條院・里庄・大島その他38名、計76名が学んだ。
著書・紀行文・漢詩文・絵画・地図等に勝れた作品が多く今後の調査と解読が待たれる。 境内の笠原松雲頌徳碑 ⇒ ClickHere
☆2010/12/22 福井山十二坊を歩く⇒ ClickHere
2012/01/24 福井山域外の戦没社慰霊塔 「忠魂之碑」 ⇒ ClickHere |

位置図⇒ |
龍王山城跡
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宮ノ前古墳
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龍王山城跡と宮ノ前古墳
写真手前左の小丘が通称こまり山、この山頂南腹に宮の前(天神原)古墳趾がある。現在は石室が掘り取られた跡が荒地になっており、その跡が大きな凹地となっている。この古墳の石材は大正年間に県道寄島・里見間の道路改修工事にすべて使用されたために完全に破壊されてしまった。現在は古墳跡に「塚の神」が祀られている。掘り取られた石室跡の凹地の広さや古老の話から推測して古墳時代後期の町内最大規模の横穴式石室古墳であったにちがいない。
後方の遠景に見え頂きの山が龍王山である。
寄島町と鴨方町との町境にあって、標高289mの山頂から三峯に分かれ、東に一の丸、南に二の丸、北に三の丸がある。明確な遺構は不明。永禄年間には青佐山から細川通董が移って居城した。道董に先行して南北朝時代には龍王山の城主として頓宮(はやみ)又次郎その子の孫三郎が居城したと伝える。太平記の元弘三年(1333)四月三日の京合戦の條に頓宮父子の奮戦した事が載ってゐる。此合戦に二人共討死した。その後には、足利尊氏が叛して九州から東上する様になって之に属した。尊氏の臣高師秀が備中守護となって此邊を守っていた。現在でも龍王山の麓には土居という集落があり頓宮氏の館跡が残る。遺構は深さが内側(土塁側)で7 ~ 8 m、外側で4 ~ 5 m、幅7~ 8 m
の堂々たる堀である。 ⇒ 居館跡&供養塔 ClickHere
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位置図⇒ |
分教場と茶臼山城跡
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柴木分教場跡・現柴木公民館
明治15年「浚明初等小学校」として独立したが、明治20年「泰秀小学校」に合併し「柴木文教場」となる。さらに26年「大島中尋常小学校柴木文教場」、37年に「大島尋常高等小学校柴木分校」となった。昭和30年には新校舎が完成し、同年4月に町村合併により「寄島西小学校柴木分校」となった。
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茶臼山城跡 学校教育とは直接的な関係はないが、
公民館の背後に聳える山が標高△190m茶臼山である。
天文10年(1541)大内摂津守、天正二年(1574)毛利幕下の天野右衛門尉が居城したと伝える。頂上には東西100mを隔てて円形の平地がある。上下二段になっていることから一の丸・二の丸三の丸の築城趾と見られるが、遺構は残存しない。
なお、茶臼山城の東方には龍王山趾(標高△290m)が眺められる。 ClickHere
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2012/01/19 茶臼山城の縄張り図発見⇒住吉家文書より ClickHere
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位置図⇒ |
実盛傳説と地名の実盛
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斎藤別当実盛傳説と小字実盛(実森とも)
柴木という土地は三方が山に囲まれてあたかも隠れ里を想像させる。左の写真に見える「柴木」の標識を左折して山に入ると実盛の墓にたどり着く。土師器や布目瓦などの遺物が山の斜面の畑地からいまでも出土するという。斎藤別当実盛とは如何なる人物か?『平家物語』巻第七に「実盛最期」として載る平家方の武将。寿永2年(1183年)加賀国の篠原の戦いで木曾義仲と交戦し敗北。義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、白髪の頭を黒く染め73才の高齢を隠していたことで有名。
一方、「寄島町誌」ではこの史実と傳説との関わりを次ぎのとおり解説している。源平屋島の合戦に、斎藤別当実盛の子信実敗戦して手負いとなり、家臣寺尾四郎・同十郎の二人を従えて備中早崎の浜に上陸し、その北方の山間に身を潜めた。これが実盛の地名の起源である、と伝えられる。しかし、実盛はこれより先、平維盛木曾遠征に従軍して死んでおり、その子信実隠れ住んで実盛と名付けられたというのは変である。むしろ実盛の地名が先行して存在していたと考えるべきで、これは実盛の荘園的得分所有地であったので地名が発生し、信実もその縁で隠れ住んだと推断する。
実盛の供養五輪墓(文政7年1824建立) ⇒ ClickHere
訪問2010/02/21⇒ ClickHere 大島に残る平家伝説 ⇒ 小烏大明神 ClickHere
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位置図⇒ |
孝
子・甚助
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墓地
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孝子甚助の生家跡と墓地
現地案内板、「約300年前、この地に生まれた孝子、初代勘助と曽孫甚助の孝養美談はふるさとの人に語り伝えられ、池田侯から賜った感状は屋敷内の宝庫に納められている。寄島町指定文化財 岡山藩主池田光政の感状、同池田綱政の感状 寄島町教育委員会 寄島町文化財保護委員会」
墓石の記年号は延宝九年(1681)
甚助は天和八年(1622)に本村柴木で生まれた。幼少の頃父を失ったが母に仕えて非常に孝行を盡した。承應三年(1654)十一月十三日池田光政がそのことを聞いて城に召し「お前の孝行は國中に及ぶ者がない。父母に仕える者の手本とすべきものである。」と褒めて感状を与えた。そして作っていた田畑の租税を永代免ぜられた。この感状は今家宝として下原家傳へてゐる。曽孫甚助も亦孝養が篤く領主池田継政は延享二年(1745)感書を下して倉米一石を与えた。其年甚助を後園の亭に召して白銀二枚を与えた。又池田政晴は「世々の秋や仁を為つくろふ家の風」の発句を与えた。安政四年(1857)六月に「忘れずよ柴木の村に住みなれて親をはごくむ道のかしこさ」と絹本に書した歌をも継政は與えている。
2010/02/23 ウェブで発見!「孝行石」が笠岡新山T氏宅にあるという ⇒ClickHere |

位置図⇒ |
藩校手習所と寺坊趾
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柴木手習所趾と東光坊・蓮台坊趾
岡山池田藩は庶民教育のために郷学を地方に興し、その最初のものは池田光政が藩校の設立(藩士の子息を教育するために設立した学校、1669年(寛文9年)に池田光政が全国最初に岡山学校を設立した。)と前後して1669年(寛文9年)に郡内122カ所の郡中手習所(町方手習所より改称)を設置されたなかのひとつ。写真では民家の左手の竹藪の辺りに在ったという。
浅口郡には1667年(寛文7年)正月設置、四ヶ所のうちのひとつ。庶民の子を対象に孝悌の道・孝経・小学・四書等の基礎儒学と読書・習字・算用等を学ばせた。師匠は庄屋五郎太夫で8才から16才まで15人が学んだ。
この地に東光坊があったという。福井山龍城院の末坊12坊のうち柴木には東光坊の他、蓮台坊・西の坊・しょうじょう坊・金光坊・秋野坊・南光坊・円城坊が点在し佛教文化が花開いた。寛文6年(1666)、名君の譽れ高い藩主池田光政は教育の普及政策と同時に藩内宗教改革を断行した。淫祠を破毀し社寺整理と統合・寄宮政策である。これにより、福井の龍城院を残し柴木の僧坊は悉く焼き払われた。現在では当時を偲ばせるものは残っていないが、附近の畑地を深耕すると分厚い布目瓦などが出土したという。
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位置図⇒ |
柴木天神社
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柴木天神社(天神山南山裾・通称天神原) 大島歴史クラブ資料より。
延宝2年(1674)10月17日の創建。京都北野天満宮を勧請したと伝えられえる。
現在の社殿は今から百餘年前に建立され、本殿・幣殿・拝殿等は町内では大浦神社、安倉神社につぐ整備社である。昔は現在の「お日待殿」が本殿であった。
なお本殿の破風(写真右)は、宮大工の言によれば旧浅口郡内の社殿の中でも貴重なものであるとのことである。
また昭和30年寄島町に合併されるまで柴木は旧大島村に属していたため、大島在住民にとっては大浦神社よりも天神社に対する氏子意識が今でも強い。
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2010/02/28
大島中村に「天神社」という同名の社があるらしい。勧請先もここと同じ北野天満宮で創建日も同じく延宝2年10月17日、一体誰の意志が働いたのであろうか。
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<サイト内リンク>2012/01/20
| No. |
散策ガイド |
内容 Contents |
| 001 |
柴木附近畧図 |
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大島から茶臼山と鉢山の間の尾根を突っ切って東進する柴木へ抜ける道の峠の名前を「観定峠」という。古地図には「勘定峠」と表記
されており、山賊どもが取り前の勘定を行ったことからこの命名になったとか。鉢山は青佐山に連なり大島と寄島を分断している。
大島畧誌にたびたび登場する柴木の地には弥生土器から平安~鎌倉~室町・戦国と長い時代の遺跡が出土している。 (「寄島町誌」より)
茶臼山城址(「里庄村誌」(大正13年刊)より
「新庄の東南境にて海抜190m大島村柴木に峻立せり。山容臼状に似たり。登路一條あり北方は急斜面にして南方はやや緩やかなり。西端
に一の丸に三段に分かれて東と西に広く平地四周を繞り、全面荒草繁茂し松林鬱蒼たり。五輪塔骨壺など散布せり。
此の城主に就いて「備中誌」には天野右衛門尉とあり、また「備中府誌」も同説にして且つ其の先祖は天野民部太輔政貞なりと記せり。
(政貞武勇の事、太平記に委し)両説とも年代履歴分かり難し。然るに「備陽國誌」には大内摂津守居城なりとあり。
(附記)城山下、新庄地内には字夜打ケ原、隠れ谷、鐘堂等の地名残存せり。按ずるに或いは古戦場なりしやと懐はしむるも其終始を詳らかに
する能はざりき。
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| 002 |
浅口という地名の初出 |
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「寄島町誌」より引用図 |
「続日本紀」第七巻、「元正天皇霊亀2年(716)秋八月癸亥」の条に「備中国浅口郡犬養部の鴈手(かりて)というものが、飛鳥寺の
焼塩戸に配せられた時、誤って賤民の身分に編入されたので、これを朝廷に訴えて、この日許され良民になることができた」とある。
この浅口郡犬養部とは今の浅口郡鴨方町大字小坂東字犬飼に比定されている。
『和名類聚抄』(935)によると浅口郡は、阿智(阿智)・万無土(間人)・布奈保(船穂)・宇良美(占見)・加波無良(川村)・乎佐加(小
坂)・八也之(林)・於保之麻(大島)の八郷に分かれていた。
☆2010/12/18 「里庄町誌」(1971/11刊行)より
応永年間(1394-1428)の吉備津神社奉納記録、備中十一郡七十二郷 島二のうち 浅口郡八郷
西阿智郷 茜(あかね)三十両 五百部諸恒 間人郷 鯉三十喉 財田米持 船穂郷 干魚五百喉 加藤有枝
占見郷 塩百十石 佐伯稲長 河村郷 精米十石 岡田頼昌 小坂郷 曳出物馬十疋 百済秋富
口林郷 御節料魚百喉 春日頼持 大島郷 鯉五十喉 磯上浦方
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| 003 |
「大島略誌」より「大島村地図」 by 黒住清氏著 s12年 |
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本図右上端に「龍城院」が書かれている。
大島側から柴木へ抜ける道は鏡経由と勘定峠経由が本道だが、青佐山から尾根を縦走する小径も描れている
本図でも柴木地区に□印=古墓跡
か?が集中している |
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2012/01/24更新 |
2010/01/12 |

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