備中国大島中・寄島「青佐山城」△249.4m 登る
 大島側には中腹附近まで民家が見えている。小字名は大空
訪問DATE: 2010 12 06 

「青佐山城大手東南(搦手側:西北、大島中大空からの登坂道あり)
「青佐山城」(「古戦場備中府誌」浅口郡より抜粋)
 
當城開基、阿部清明。世に淺口殿と稱す。其高名口碑
に傳る也。應仁の頃の城主、原田惣右衛門尉は細川家
長臣たり。天正年中城主村上備前守景盛。大阪港江に
て九鬼・寺田と合戦軍功あり。
 

2010/12/08 Created
  安倍晴明川と青佐山城
  「古戦場備中府誌」序
備之中州穴門郷平川親忠(現高梁市川上町)は温厚和緩、古を好む癖あり。諸書の軍記を参考とし、其の子孫の伝記を捜し
一書として編す。是を古戦場備中府誌と曰く。。。。享保乙卯(20年:1735)容藤齊主人 進藤益堅謹序
この書には「細川道董」の名前が記されていない。阿部晴明が開基したのは10世紀だとすれば、その後の城代は細川時代の
原田惣右衛門尉だという。この間、4~5百年はかなりのブランクである。一体誰が居城していたのだろう。
 登頂日記(2010/12/06) 12:45~14:00
 当日、県道406号寄島笠岡線を東行し二階から分岐して松尾~大空へと車で走って道の行き止まりに駐車させた。
地図では大島側に「青佐山登山口」と書いた附近か、山に沿った小径の旁らに写真上左上段の白い標識があった。
登山道は急傾斜かつ落葉が降り積もっているせいですこぶり足下が悪い。頂上に稲荷社があるので氏子の方たちが定期的に
参拝登山をされていると伺った。青佐山の南中腹から登りはじめて反時計廻りに東側から頂上へと道が続いている感じであった
が定かに非ず。途中、灌木の雑木の合間から正頭漁港がはっきりと見えた。後にも先にも眺望が効く場所はここだけで、頂上も
雑木が覆って視界は悪かった。
歩きはじめて約20分、第一の朱塗りの鳥居が迎えてくれる。城郭への大手門に思えた。記録によればここから三段に分かれた
曲輪があって本丸附近もかなり広いスペースとなっているはず。途中、古井戸があった。のぞきこむと中は深く、枯渇していた。
そして、本丸への入り口は第二の朱鳥居、「稲荷神社」が鎮座していた。拝殿と本殿があって本殿の廻りには石垣が残っている。
株神さまと称する家型小祠が二基あった。
拝殿附近には石造物が点在、いずれも明治以降の築造だと聞いた。
その碑文は、「大岡越前守 太宰府天神 中納言吉川直行 天正元年一月吉日二階堂常子」と彫られた石と
隣に「二階堂大炊神 神武天皇暘拝所 藤原鎌足公」と読める石、それと少し離れて四角柱が一基、黒住教関係の碑石のようだ。
一般論だが中世古城と稲荷社との関係。ここ青佐山城以外に他にもかなりあるような気がしている。 

位置図: 浅口市鴨方町寄島

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 青佐山は海側から見るとすぐに分かる。
笠岡諸島から東を望むと特長ある青佐の嶺は格好の目
標物である。三郎島から見ると一層それがよく分かる。
三郎島には井戸と入江があって上古から良港として都人
たちに知られていたであろうことは神武東征~神功三韓
征伐など神話の時代の伝説が脈々と伝承されてきたこと
を思えば容易に想像できるであろう。
備中府誌は江戸中期の版だが、作者平川親忠の云うとお
り創建は安倍晴明であろう。平安~鎌倉~室町にかけて
道董の居城する前の青佐山物語を知りたく思った次第。