備中国鴨方「鴨山城」△168.2m
 別名「清滝山城」or「鴨方城」、築城は細川光国、応永14年(1407)連廓式山城
訪問DATE: 2009 11 25 

「城郭に昭和11年(1936)、道董350回忌に家臣の後裔有志によって建立された城址碑」

「鴨山城」
(「日本城郭大系」他より抜粋)
 
別名、加茂山城・石井山城・清滝山城。応永14年(1407)、
細川満国の築城。満国は名門細川管領家の後裔に当たり、
備中国浅口郡・同国矢田郷・伊予国宇摩郡・温泉郡・摂津
国小林上下庄・丹波国畑之庄などを領知したと伝えられる。
長川寺由緒記に残る「細川家系図」によると(鴨山初代)
満国--持春--教春--政国--晴国--通政--道董となる。
鴨山の北には西から東へ杉谷川、東には北から南へ鴨方
川、南は東流する指田川の支流が流れる。鴨山の南東山
裾には細川氏の菩提寺長川寺がある。
この境内から墓地を横切り鴨山を登る。結構な急斜面で、
途中露出した巨石に観音像が刻まれていた。地元の方々
は摩崖仏だと呼ぶ。西国三十三観音であろう。
そして頂上、頂部にある本丸を中心に100mX250mの広さ
で「く」の字に曲がった横矢斜(よこやひずみ)で南北に五
郭を構える。
この南に延びた五の郭に写真の自然石に「鴨山城趾」碑が
建っている。裏面には「城主細川公之遺趾自應永十四年至
慶長五年家臣之後裔建之」と刻まれていた。

2009/11/25 Created
 
 細川道董公の事蹟
 
 「長府細川系図」(下関市長府図書館蔵)によれば、細川道董は通称太郎、初名を通頬といい、父は安房守晴国(はるくに)、母は
河野弾正少弼越智通政(こうのだんじょうしょうひつおちみちまさ)の女と伝えている。天文四年(1535)伊予国松山城に生まれ、翌
年同国宇摩郡の川之江城に移った。父晴国は天文五年摂津本願寺合戦の際に天王寺で戦死した。享年四十三歳。道董はわず
かに二歳であった。幼時は母方の河野氏に養われ、成長後は叔父細川輝政(初名通政)の継嗣となった。
兄晴国の後継となっていた輝政は、天文二十二年五月松山城において五十歳で没すと伝えているから、この年十九歳で輝政の跡
目を継いだものであろう。
 『鴨山城主細川公由緒記』(長川寺蔵)の伝えるところによると、戦国乱世で浅口郡を治める「大将」がいないので、細川被官の三
六将八十余人の国人が相談したところ、分郡知行主の末裔で伊予国川之江城主細川太郎道董を迎えようということになったという。
「大将」 を必要とする備中国浅口郡の国人の要請と、伊予国宇摩郡の細川氏衰退という情勢によって、道董の備中国行きが実現
することとなった。
 
 永禄2年(1559)2月、伊予国宇摩郡川之江から漕ぎ出した一艘の小舟に乗って、細川道董は浅口郡に到着したという。道董は
25才、家臣団に迎えられ大島と寄島の境にある青佐山城に入る。七年後に鴨方・寄島境の龍王山城に移り九年間拠城し、天正
三年(1575)にこの鴨山城に拠点を移し、以後その没年までの十二年間を拠城とした。
(元文四年1739、長川寺住持東光万仭が記した「長川寺由緒記」による)

 天正三年正月、道董は毛利の旗下に属し備中国国吉城(川上郡川上町)攻めに加わり、翌天正四年本願寺合戦に加わったよう
である。この年に嫡男元通が誕生している。「長府細川系図」によれば、通重は豊臣秀吉の島津征伐に毛利の旗下として従軍して
の帰途、天正十五年七月晦日、長門国赤間関の尾道へ向かう船中で没したという。享年五十三歳。法号を長川寺殿前野州大守峯
山浄高大居士と称し、墓所は長川寺裏山にある。

 

位置図: 浅口市鴨方町鴨方

 <周辺史跡 サイト内・リンク>

  菩提寺長川寺  →  ClickHere

  鴨神社       →  ClickHere
  
  寄島青佐山    → ClickHere
  

 <周辺ふぉっと> 2009/11/25 Fine Day
  
  鴨山城眺観 → 頂上の木立の合間の眺望

  鴨山城摩崖仏 →  西国三十三観音霊場
             
  鴨山城城壁か → 露出した巨岩と点在する
               斜面工作の積み石かも。

  鴨山城縄張図 → 日本城郭大系より
  
  細川道董絹本着色図(長川寺蔵) ⇒ Click

 地元では別名
 「鴨方富士」or「地頭富士」とも呼ばれている。
 同名で金光町との境界にある安芸守山 199mもそ
 呼ばれるそうだ。同一名が同地区にある!?

 外部サイト⇒ClickHere
「里町村誌」(大正13年刊)加茂山城址

 城山(一名青龍山)本郡鴨方村に在り建武中(1334-1338)頓宮(はやみ)氏の居城にして、応仁の頃(1467-1469)其臣原田悪右衛門(大島兵部という)之に居る云々。
天文(1532-1555)以降細川下野守道董の居城たり。元亀元年(1570)尼子の将秋上綱平備中に侵入し毛利氏の属城を攻陥、鴨方細川氏及び属城を屠る(「日本史蹟」)
細川道董は浅口郡六万石を領し天正15年(1587)まで在城。
道董はこの歳、豊臣氏が九州征伐の軍に従ひ、長州赤間ケ関の陣中に於いて病没したり、歳五十三。遺子九郎元通後を嗣ぎまた下野守と稱す、九州の役より凱旋する
や郡内道越の要害山に壘を築き、其臣井上弾正をして之を守らしむ。而して又文禄元年(1592)征韓の軍に従ひ殊勲を建て凱旋の後、慶長五年関ヶ原の役起こるや
元通意志両端を持して決せず。役終るの後遂に徳川氏の命により開城して長州萩の城に移されたりき。
(附記)常時主従留別したる者、田中忠廣、阿部喜廣なりとかや。その他当郡内に散居せる者三十四人なりと云う。道董諡號「長川寺殿前野州大守峯山浄高大居士」、
明治十九年五月三日三百年忌法會同寺住職水永玄道執行す。参吊者(さんちょうしゃ)遠孫細川頼彬はじめ川田甕江(かめえ)、田中立伯、安倍松吉、田邊新次郎、
田邊紋平、小林郁郎、高戸吉平、大島静太郎、藤澤某等なりしとぞ。                                      (2010/09/12 追記)

『岡山文庫・岡山の城と城趾』by 藤井駿・市川俊介共著
 この城は、別名を「加茂山城」「石井山城」「活滝山城」ともいわれる。鴨方の街のうしろにそびえる山に城址がある。 この城の築城については、くわしいことは不明であるが、正平六年
(1351)細川頼之が備中守護職になってから、同義春が築いたものと伝えられる。応永十四年(1407)、細川頼之の孫満国は備中守護職に任ぜられ、同義国はこの鴫山城を拠点に、備
中浅口郡・矢田郷・伊予宇摩郡・温泉郡・摂津小林上下庄・丹波畑之庄を領し、強大な勢力を誇っていた。その後、持春・教春・政国・晴国・輝政・通董・元道と八代にわたり在職した。
 六代城主輝政のころ、足利幕府の権威は地に落ち、中国地方では毛利氏・字喜多氏などの勢力が強くなった。永禄元年(1558)宇喜多直家に攻められ、細川輝政はこの城を追われた。
このとき、細川通董は伊予川之江城にいたが、鴨山城を奪い返すため、毛利と同盟を結び笠岡市大島に上陸し、青佐山城を築いた。そして八年までの七年間在城した。
同九年鴨方町六条院に竜王山城を創築して移った。通董はこの城に九年間居城したが、天正三年(1575)父祖伝来の鴨山城を修理して入った。同十五年まで十二年間居城した。
適量は青佐山・竜王山などを支城に強大な勢力をもっていた。さらに、浅口郡地方の開拓や産業文化の発展に努力し、応仁の乱で兵火にかかった菩提寺の長川寺を再建して、
庶民から名君として慕われた。
 八代城主浅口少輔九郎元通は、文禄元年(1592)毛利輝元に従い朝鮮出兵に出陣、軍功があり秀吉から感状をもらっている。しかし、慶長五年(1600)関ケ原の戦いに毛利方に従い、
敗れたあと、元通も備中に所領を失い長州に移住した。こうして、満国以来八代百九十四年間の治政は終わり、鴨山城も廃城となった。  (2011/02/09)