安倍晴明伝説 (2)、占見宮中地区を歩く


天文博士従四位下『安倍晴明』が住み修行した占見の地

地名考
『陰陽師 晴明を追う』(921~1005)という特集が地元新聞に連載されていた。(2002/11/02~11/17 7回シリーズ)

当日晴明碑を訪ねたその日に、赤沢久雄さんからコピーを見せていただいた。以下はその切りぬき記事の要旨。
「第1回 in井笠 占見」 塚に眠る神秘的逸話
 陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明のゆかりの地、金光町占見の宮東地区に「晴明霊墳」がある。明治22年の建立だがこの周辺には晴明屋
 趾地、芦屋道満塚、道満池と坊主岩などが点在する。最近の晴明人気で大学生や歴史愛好家たちが新幹線で名古屋・大阪あたりからわざ
 わざここを訪ねる人が増えたという。
 といわれている。
「第2回 in井笠 吉備物語」 江戸初期には伝説流布?   
 晴明伝説の初見は在田軒道貞(1695没)著「吉備物語」と云われている。
 晴明は金光占見に住みこの地で師を得て勉学、下道(吉備真備)へも通ったか?晴明はその後、京都にのぼり賀茂保憲に学んで天文学を
 修め、従四位上となった。
「第3回 in井笠 阿部山」 天体観測の地 名に残る
 鴨方と矢掛町との境に標高400mの阿部山が聳える。山名の由来は陰陽師安倍晴明がここで天体観測をしたことに因む。山頂には晴明屋敷
 と阿部神社別名晴明神社、祠、晴明大権現碑などがある。矢掛町側には1961年に高さ3mの「安倍晴明之碑」を建立した。この地は大気の
 ゆらぎが少なく天文観測に適しているという。東隣の竹林寺山には1960年に天文台が建ち、国営となった。
「第4回 in井笠 道万」 ライバル暮らした地
 阿部山西麓の笠岡市尾坂には道万という小字が残っている。ここに「吉備物語」の記述の道満屋敷が伝承され、道満稲荷が祀られた。
 尾坂からさらに西へ2kmの山口には晴明が定宿として泊まったという伝承が残っている。
「第5回 in井笠 大浦神社」 魔 封殺する城の守護?
 寄島の大浦神社は晴明の開基と伝えられる。当時の晴明は備中国副長官、備中介であった。神社から南西へ1Kmに青佐山があり城の築城
 も晴明の開基という説もある。小川宮司は城から大浦神社が鬼門(北東)に当たり魔を封じる役割があったという。福山市神辺町三谷には
 晴明の末裔を名乗る安倍一族がいる。晴明は阿部山~尾坂~三谷へと移り住んだという伝説。三谷には「晴明様」という石塚がある。
「第6回 in井笠 修験者」 権威付けに担ぎ出す!?
 阿部山一帯は修験者たちの修行の場であった。江戸時代に幕府がこれを奨励した。祖父の代まで修験者だった鴨方小坂東の家には御堂が
 残る。呪術・雨乞い・虫送り・火伏せ・薬の調合・病気平癒など。晴明の師賀茂保憲の子孫は戦国時代に没落、その修験者集団が鴨方に
 移住し、晴明の名声を担ぎ出したのではないかとの説も。
「第7回 in井笠 信仰」 思想・伝説 今も息づく
 陰陽五行説は陰と陽、木・火・土・金・水の五行説の融合で森羅万象が説明しようという試みである。修験道は鴨方の大寺院、明王院と
 結びついた。怨霊をおそれ、自然信仰に結びついた。この展開が近世金光教である。教祖金光大神は祟りの神の方位神である金神を肯定
 的に捕らえ、金神が人々を救うと説いた。晴明伝説は井笠の文化と信仰に大きな影響を与え、今も息づいている。
 



 Paticulars Information View


京都



神社

安倍 晴明(あべの せいめい/はるあきら/はれあき) 921-1005
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 延喜21年(921年)? - 寛弘2年9月26日(1005年10月31日))は、平安時代の最も有名な陰陽師の一人であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。
当時最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ったエキスパートで、平安貴族たちの信頼を受けた大陰陽師。その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。道摩法師(蘆屋道満)とはライバル関係にあった。また、平将門の子の平将国が安倍晴明ではないかという説もある。
後世に陰陽道の経典となる秘伝書『簠簋内伝』(ほきないでん、別名『金烏玉兎集』)の著者に仮託されている。実際の晴明の著作としては土御門家に伝わった占事略决がある。特に近年では夢枕獏の小説(のち漫画・映画化)のヒットにより、京都にある晴明神社が人であふれかえるほどの大ブームとなった。

右は安倍晴明(京都・晴明神社蔵)
 


見の
聖域
への
道行き

笠岡からの道ゆき
①農免道路を東進み里庄からは県道60号を金光駅に向かう。
 途中、天草公園の浅口市中央公民館に立寄り、ガイドマップをゲット⇒
②金光駅の道路標識が見えたら、駅の手前の学校を左折し脇道を北進する
③金光中学校の体育館の横の駐車場に駐車し、ここから歩く。
 ここからは大宮神社(マップでは4鳥居額とある処)の鳥居が目印
④大宮神社の扁額には二社併記(大宮&日吉神社)、その参道が下の写真
⑤大宮神社の石段に当たるので、それを登らずに道なりに右に歩く。
 周りの景色からここまでは海が迫っていたと実感できる。学校あたりま
 でを占見新田というが、この地区は単に占見。
⑥「安倍晴明の墓」という記載は間違っているそうだ。
 占見の里を歩いてゆくと赤沢久雄邸があり、すぐその隣。
 幸運にも赤沢さんと出会い、ここからは現地ガイドをしていただいた。
⑦この日、廻った史蹟
 芦屋道満の「道満池と坊主岩」、「道満の墓」、「鬼の手形岩」途中に
 「荒神社」があった。荒神社と「貴船神社」との併設は珍しいとのこと
 
一宮大
明神
こと
大宮
神社

目印は「大宮神社」(by 徒歩)
 県道里庄~金光線の金光中学校を左折して北上、[大宮神社]を目指す。
大宮神社・日吉(ひよし)神社 現地案内版より
 大宮神社 主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
当社の創建は天智天皇の時(666)と伝えられ、当時から一宮であった。
祭神は大国主命(縁むすびの神)と酒の神(松尾の神)の同体神である。
文安三年(1446)社殿宝庫、古記録が焼失したが、樟でつくられた「一宮
大明神」の鳥居の額が現存する。その額の両側には占見、津田庄と刻む。
現在の社殿は元禄13年(1700)八月に建立された。寛文六年(1666)
池田光政公の宗教政策により、占見・占見新田・八重・道越・七島・島地
・亀山・道口にあった117社がここに合祀された。
 日吉神社 主祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)
当社は、享保13年(1728)十一月、比叡山坂本にある元官弊大社日吉神
社を勧請し、山王権現と称し、本殿一宇を大宮神社の境内に属社として祀
られた。随神は猿で、神猿といい本殿の中にまつられる。現在の社殿は享
和二年(1802)に改築された。


道満
池へ登る


「晴明霊墳」碑から歩きで3分
 ここからは赤沢さんに案内をしていただいた。
写真右、遙照山へとつながるこの山麓には果樹園や畑だった。さらに時代
を遡ると、稲田だった。確かに棚田の趾である。道満池は此等の棚田の水
源として確保されていた。
11世紀初頭のことだから、いまからざっと千年も昔の話である。占見新
田は海の底にあり、大宮神社は波打ち際に建っていた。伝説どおり道満は
安倍晴明を追ってこの赴任地まで辿り着き、この地に住居を構えたのであ
ろうか,住居跡だと説明を受けた場所は見晴らしがいい。対岸には金光教
の教主の居館のある大谷と向き合う位置関係である。
道満の住居があったという伝説は笠岡尾坂にも現存する。
この占見から尾坂までは凡そ1里半の距離。もっとも200m級の山脈の尾
根づたいの径なので樂ではない。写真左上の「道満池」の木製標識は赤沢
さんの手作りだと伺った。池は右上のようなのぼりの祖間道。60年前には
雑木もなく見晴らしが利いたという。 
  



の手形岩

鴨方の名峰「遙照山」への登山道にある。

 現地案内版より
『(表面の凹凸が鬼の手形に見える)
伝説 むかし、力じまんの鬼が大岩を(遙照山の頂上から占見の)池に投
げ込もうとしたが、届かず道の上へ落ちてしまった。
困った村人たちが力を合わせて、この大岩を動かそうとしたが、びくとも
しない。この様子を見ていた鬼は、もとに返してやろうと、大岩を投げた
がなかなかもと通りにならない。
そこで、鬼は満身の力をこめて思い切り投げつけると、大岩は山の中腹に
めりこんだ。手が痛いので見ると手の皮が破れ血がにじんでおり、岩には
手の形がはっきりとついていた。』
写真では左下の凹みの部分。右手だという。昔は親指にあたる跡もくっき
りとあったが、最近では判りづらくなったと赤沢さんから聞いた。この手
形石に隣あって岩の割れ目に芽生えて、この岩を裂け目が広がっていると
いう樹と共存の奇岩があった。写真右部分。


 

No. 道ゆきガイド   内容 Contents
001 占見宮東の『晴明霊墳』碑 明治22年建立  画像みる    ↓
     

 隣家の赤沢さんに晴明霊神の幟を見せていただいた

  「晴明霊墳」塚は高さ170cm、周りは100cmほどの玉垣で囲まれている。創建は明治二十二年、当時地元金光の村長ら有力者
 たちの寄進である。この塚の前に晴明が暮らしたという晴明屋敷があったというが、現在は果樹園の面影はあるが荒れ地である。
 金光町の多くは新田開発によって生まれた土地であるが、すぐ隣の大宮神社の鎮座する山裾からこの晴明塚も同じ高さの山合い
 に並んで立地している処を見ると、平安時代にはきっと海がそこまで入り込んでいたに違いない。
 塚とその周辺に点在する晴明史跡を案内してくださった赤沢さん宅には晴明神社の幟が伝わっている。長さ五尺、年一回の祭礼
 つい最近まで催行されたいたそうだ。

002   「晴明霊墳」碑から500mほどか、荒神社の隣に鎮座する「道満」碑  画像みる    ↓

この碑のそばには「荒神社」が祀られている。
が、碑は顕かに社域。
五輪塔の由緒も不詳。
 
 芦屋道満  (Wekipedia他)

 道摩法師(どうまほうし)は平安時代の陰陽師。蘆屋道満(あしや どうまん、芦屋とも)として知られる。安倍晴明と好敵手関係にあった。なお、道摩法師と蘆屋道満は別人であるという説も存在する。式神対決で晴明に敗れ、播磨へ追放された。

江戸時代の地誌『播磨鑑』によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされる。また播磨国(現在の兵庫県)の民間陰陽師集団出身ともいわれる。(「吉備物語」では薩摩より占見に住み着いたとある。)

陰陽道の祖とされる安倍晴明とライバル関係にあった。晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持つとされ、安倍晴明が藤原道長お抱えの陰陽師であったのに対し、蘆屋道満は藤原顕光お抱えの陰陽師であった。道満は藤原道長の政敵である左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされる。


003
 「道満池」の坊主岩(高さ約7m幅6m)


道満池の伝説(現地案内板より)
 
むかし、金色にかがやく山鳥がこの岩にとまりつづけていた。
道満の「村に悪いことが起こる。」との占いにより、岩をとり除こうと火薬で爆破させたところ、岩は真二つに割れて、真っ黒な血が
流れでた。それから、金色の山鳥は姿を見せなくなり、村には何事も起こらなかった。

2011/07/16
更新
2015/06/28



 
Ads by TOK2