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京都
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晴
明
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蔵
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安倍 晴明(あべの せいめい/はるあきら/はれあき) 921-1005
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
延喜21年(921年)? - 寛弘2年9月26日(1005年10月31日))は、平安時代の最も有名な陰陽師の一人であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。
当時最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ったエキスパートで、平安貴族たちの信頼を受けた大陰陽師。その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。道摩法師(蘆屋道満)とはライバル関係にあった。また、平将門の子の平将国が安倍晴明ではないかという説もある。
後世に陰陽道の経典となる秘伝書『簠簋内伝』(ほきないでん、別名『金烏玉兎集』)の著者に仮託されている。実際の晴明の著作としては土御門家に伝わった占事略决がある。特に近年では夢枕獏の小説(のち漫画・映画化)のヒットにより、京都にある晴明神社が人であふれかえるほどの大ブームとなった。
右は安倍晴明(京都・晴明神社蔵)
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占
見の
聖域
への
道行き
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笠岡からの道ゆき
①農免道路を東進み里庄からは県道60号を金光駅に向かう。
途中、天草公園の浅口市中央公民館に立寄り、ガイドマップをゲット⇒
②金光駅の道路標識が見えたら、駅の手前の学校を左折し脇道を北進する
③金光中学校の体育館の横の駐車場に駐車し、ここから歩く。
ここからは大宮神社(マップでは4鳥居額とある処)の鳥居が目印
④大宮神社の扁額には二社併記(大宮&日吉神社)、その参道が下の写真
⑤大宮神社の石段に当たるので、それを登らずに道なりに右に歩く。
周りの景色からここまでは海が迫っていたと実感できる。学校あたりま
でを占見新田というが、この地区は単に占見。
⑥「安倍晴明の墓」という記載は間違っているそうだ。
占見の里を歩いてゆくと赤沢久雄邸があり、すぐその隣。
幸運にも赤沢さんと出会い、ここからは現地ガイドをしていただいた。
⑦この日、廻った史蹟
芦屋道満の「道満池と坊主岩」、「道満の墓」、「鬼の手形岩」途中に
「荒神社」があった。荒神社と「貴船神社」との併設は珍しいとのこと
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一宮大
明神
こと
大宮
神社
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目印は「大宮神社」(by 徒歩)
県道里庄~金光線の金光中学校を左折して北上、「大宮神社」を目指す。
大宮神社・日吉(ひよし)神社 現地案内版より
大宮神社 主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
当社の創建は天智天皇の時(666)と伝えられ、当時から一宮であった。
祭神は大国主命(縁むすびの神)と酒の神(松尾の神)の同体神である。
文安三年(1446)社殿宝庫、古記録が焼失したが、樟でつくられた「一宮
大明神」の鳥居の額が現存する。その額の両側には占見、津田庄と刻む。
現在の社殿は元禄13年(1700)八月に建立された。寛文六年(1666)
池田光政公の宗教政策により、占見・占見新田・八重・道越・七島・島地
・亀山・道口にあった117社がここに合祀された。
日吉神社 主祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)
当社は、享保13年(1728)十一月、比叡山坂本にある元官弊大社日吉神
社を勧請し、山王権現と称し、本殿一宇を大宮神社の境内に属社として祀
られた。随神は猿で、神猿といい本殿の中にまつられる。現在の社殿は享
和二年(1802)に改築された。
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道満
池へ登る
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「晴明霊墳」碑から歩きで3分
ここからは赤沢さんに案内をしていただいた。
写真右、遙照山へとつながるこの山麓には果樹園や畑だった。さらに時代を
遡ると、稲田だった。確かに棚田の趾である。道満池は此等の棚田の水源と
して確保されていた。
11世紀初頭のことだから、いまからざっと千年も昔の話である。占見新田
は海の底にあり、大宮神社は波打ち際に建っていた。伝説どおり道満は安倍
晴明を追ってこの赴任地まで辿り着き、この地に住居を構えたのであろうか
住居跡だと説明を受けた場所は見晴らしがいい。対岸には金光教の教主の居
館のある大谷と向き合う位置関係である。
道満の住居があったという伝説は笠岡尾坂にも現存する。
この占見から尾坂までは凡そ1里半の距離。もっとも200m級の山脈の尾根づ
たいの径なので樂ではない。。
写真左上の「道満池」の木製標識は赤沢さんの手作りだと伺った。池は右上
のようなのぼりの祖間道。60年前には雑木もなく見晴らしが利いたという。 |
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鬼
の手形岩
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鴨方の名峰「遙照山」への登山道にある。
現地案内版より
『(表面の凹凸が鬼の手形に見える)
伝説 むかし、力じまんの鬼が大岩を(遙照山の頂上から占見の)池に投げ
込もうとしたが、届かず道の上へ落ちてしまった。
困った村人たちが力を合わせて、この大岩を動かそうとしたが、びくともし
ない。この様子を見ていた鬼は、もとに返してやろうと、大岩を投げたがな
かなかもと通りにならない。
そこで、鬼は満身の力をこめて思い切り投げつけると、大岩は山の中腹にめ
りこんだ。手が痛いので見ると手の皮が破れ血がにじんでおり、岩には手の
形がはっきりとついていた。』
写真では左下の凹みの部分。右手だという。昔は親指にあたる跡もくっきり
とあったが、最近では判りづらくなったと赤沢さんから聞いた。この手形石
に隣あって岩の割れ目に芽生えて、この岩を裂け目が広がっているという樹
と共存の奇岩があった。写真右部分。 |
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