「浅口の和算を語る」 (講演)
by 岡山県和算研究会会員 額田昭子氏
地名考
平成22年度 第三回 浅口市歴史講座
2011/02/05 Saturday 13:30 ~ 15:30 於:浅口市中央公民館
『備中高松城水攻め余話』by 別府信吾氏(元県立記録資料専門員)
2011/02/26 Saturday 13:30 ~ 15:30 於:金光町金光公民館
『浅口の絵馬』by 西野良一氏(浅口市文化保護委員)
2011/03/12 Saturday 13:30 ~ 15:30 於:浅口市寄島町交流館サンパレア
『浅口の和算を語る』by 額田昭子氏(岡山県和算研究会会員)
江戸時代の和算の潮流
と浅口
(はじめに)
算額は、江戸時代に数学者、数学愛好者たちが、数学問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励むことを祈念して奉納された。やがて、人びとの集まる神社仏閣を数学の問題の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、それを見て解答や想定される問題を再び算額にして奉納することも行われた
浅口市には二面の算額が現存。明治33年、六條院眞止戸山神社奉納、白神一正&清水倉太。あとの一面は地頭上の日吉神社に昭和15年に奉納、谷原喜三郎門人青木仁平太の奉納されたものである。
この算額から浅口の和算の潮流をさぐってみましょう。
日吉神社奉納算額について
昭和15年(1940)青木仁平太が地頭上の日吉神社に算額に書いた和算問題と解答を奉納し、その額に次ぎの口上書きが添えられている。地頭上 谷原喜三郎先生門人 青木仁平太獻之(谷原は⇒大谷の小野光右衛門の門下 ⇒ 備中大江 谷東平の門下 ⇒ 大阪 松岡良助の門下)ということが判る。
點竄術(てんざんじゅつ)by関孝和
(
1642-1708
)
和算の中国模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に宋金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、幼少時から吉田光由の『塵劫記』を独学し、根本的な改良を加えた。延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術、てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。行列式や終結式の概念を、世界で最も早い時期に提案したことはよく知られる。
點竄術
とはアルキメデスの原理で知られる直角三角形の斜辺2乗=底辺2乗+高さ2乗
和算ではべき乗のことを「四+幕」をべき=羃 ⇒漢字を省略して「巾」と記載する。
直角三角形の斜辺を「弦」(げん)⇒略して「玄」と表記し二乗を玄巾(げんべき)と表記する
同様に底辺を「股」(こ)⇒略して「殳」、二乗は殳巾(こべき)、高さは「鈎」(こう)⇒「勾」巾(こうべき)と表記する。
浅口市寄島町の「交流館」
『塵劫記(じんこうき)』
サンパレアとはギリシャ語で交流の意味だとか
江戸時代の数学書。
1627年に吉田光由が明の程大位の著書、『算法統宗』からヒントを得て執筆した書。数の桁の名称や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの算術を日常生活に身近な話題をもとに解説しており、一冊で当時の生活に必要な算術全般をほぼ網羅できるような内容となっている。
同書は初版来版を重ね、江戸時代に出版された数学書のベストセラーかつロングセラーとなった。また、多少内容を変えたような異本が多数出版されたことでも知られており、明治時代に至るまで、実に3~400種類の『塵劫記』が出版されたといわれている。
同書はまた江戸時代の多くの学者に影響を与えたことでも知られており、後に和算の大家となった関孝和や儒学者の貝原益軒なども若いころ『塵劫記』を用いて数学を独習していたことがわかっている。
---備中近隣との和算家たち---
1-小野光右衛門(1785-1858) 備中浅口大谷村
小野光右衛門は天明五年(1875)浅口郡大谷村(現金光町)の庄屋の家の生まれ。父が早く死去したため17歳で庄屋の職を継いだ。公務精勤によって名字・帯刀を許され、さらに焼失した蒔田藩役所の再建の際、家相や地相を調べ、尽力した功績によって大庄屋格、ついで大庄屋を務めた。地方行政に貢献すること56年に及んだという。この間、光右衛門は子弟の教育にも努め、多くの子供たちに手習いを教えており、金光教の教祖金光大神も13、4歳のころ光右衛門に手習いを学んだ。
一方、光右衛門は若いころから数学を好み、はじめは和算書で独習していたが、文化六年(1809)、25歳の時、大江村(現井原市)の谷東平(たにとうへい)について本格的に和算を学んだ。谷東平は大坂の麻田剛立(あさだごうりゅう)の塾で学び、晩年郷里に帰って中山舎という塾を開いた人で、高橋至時(よしとき)や間重富(はざましげとみ)とは麻田塾の同門といわれる。また、伊能忠敬が「谷東平と申我等天文ノ弟子」と記していることから、東平は伊能忠敬に天文を学んだようである。
嘉永七年(1854)には和算の入門書「啓迪(けいてき)算法指南大成」を刊行、出版部数は1700部に及んだという。
現在、岡山県内でも二十余面の算額が知られ、吉備津神社(岡山市)や総社市の総社宮には小野光右衛門一門が奉納した絵馬が伝来している。
2-谷東平 (安永3年[1774]-文政7年[1824])後月郡木之子村
安永3年(1774年)に大江村で生まれた。当時37カ村の大庄屋を勤めていた田郷谷氏(”田郷”は屋号で現在の井原市立大江小学校に屋敷があった)の分家で、田郷谷弥次兵衛の息子平八正純が、享保5年に崎山に分家し”中山舎”と号した。その中山舎谷氏の3世が”谷元純”であり、号を”東平”といった。また、彼が30歳のとき神辺の「菅茶山」から「以燕」(もちやす)という名前をもらった。それ以来公式の場では以燕を用いたという。
東平は幼少の頃から数学、珠算(平方根や立方根もそろばんで計算)を好み、同郷の松岡常入に師事して測量を学び、遠く江戸の「伊能忠敬」について天文、地理の理を極め、その名は関西に轟き世に重用されたという。
文化8年(1811)東平が36歳のとき、伊能忠敬が備中備後付近の街道を測量した際、東平は忠敬に随従して量地術を実習した。その後、忠敬が幕命で蝦夷地を測量していた間、東平は、備中国の精密な実測図を作成した。
3-松岡能一(のういち 1737-1804) 大阪
元文2年(1737)-文化元年(1804)江戸時代中期-後期の和算家。
元文2年生まれ。大坂城付京橋組同心。内田秀富にまなび,宅間流5代をつぐ。文化元年死去。68歳。通称は貞八,良助。名は「よしかず」ともよむ。著作に「宅間流円理」「算学稽古(けいこ)大全」。子の清信(せいしん)も「宅間流角術」をあらわす。
----《配布された資料》------------------------ 小野光右衛門著「啓迪(けいてき)算法指南大成」より
満ゝ子だての事(継子だてのこと)
同左
継子と先妻の子がそれぞれ15人ずつ合計30人がいた。絵にあるように子どもたちは輪になって並び、或る子供から順に数えて10人目を子を順次取り除き、残り一人になるまで29人を取り除き、最後に残った一人に遺産を相続する、という問題。
この「継子立ての問題」は、古くから知られているようで、1100年頃の作と言われる。一説には藤原通憲(みちのり 1106-1159)が考えたともいわれるが、詳細は不明。寛永4年(1627)に吉田光由が明の程大位の著書、『算法統宗』からヒントを得て執筆した『塵劫記』(じんこうき)に書かれているのが、これより先の「徒然草」(吉田兼好 1330年頃)の第137段「花は盛りに」に継子立ての話題が取り上げられている。ヨーロッパでは370年頃に書かれた「ヨセフスの問題」として知られている。
ピタゴラスの定理証明は幾通りもあるという。
小野光右衛門は著書で独自の証明を書きあらわしている。
「啓迪(けいてき)算法指南大成」安政二年(1855)刊
写真左は小野光右衛門著『算額稽古大全』の原書。
写真右はピタゴラス定理の証明を書いた頁。勾巾(こうべき)と殳巾(こべき)の和は玄巾(げんべき)となる証明は、玄巾=△x4箇+中央の小さい□から、補助線を用いて勾巾+殳巾が△x4箇+□を導き出している。この証明法は小野光右衛門が独自に考えだしたものだと伝えられている。
「啓迪(けいてき)算法指南大成」は安政二年(1855)千部刊行、価格は銀12匁、後7百部増刷
-むずび-
講師の額田昭子氏(81)は岡山県和算研究の他に岡山空襲体験を語り詩歌や多くの著書を著している。
「算額にみる生涯学習」「1929~ 和算 常盤台」「岡山 和算物語」(和算と岡山県の算額・遊歴算家と岡山
の和算家たち・答曰)など多数。<註:合本として「和算を語る」--岡山算歌--2008/09/15>
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井原市「足次山神社」奉納算額2面 by 佐藤善一郎
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2010/03/18