No  Site name  Auther'sName  Coments 
001  かもがた町家公園 浅口市  旧鴨方往来沿いの民家、平成1010月にOpen
002  浅口市観光情報  鴨方エリア観光情報  定番解説
003  安倍晴明を祀る晴明神社  京都一条戻橋 晴明神社  由緒・沿革、一読の価値大いにありです。
004  安倍晴明桔梗の館  Presented by NAO Kajiura feb,1997.   
005  安倍晴明神社  大阪安倍晴明神社&講談社共同   
006   中国地蔵尊巡拝 明王院の参拝紀行です   
007 浅口地方歴史探訪 Mr. Yasuo Koyama 2008/11/19 hit


浅口の歴史


 神功皇后・伝教大師最澄の立ち寄りし地

政治的変遷

笠岡市史より抜粋:戦国時代後期の鴨方。

 鴨方は浅口郡に属し、古くから細川氏の領地であった。細川氏は足利氏と同族で代々室町幕府の管領を勤め、四国・山陽に勢力があった。
応永(1394-1428)の頃細川満国が備中守護となり、浅口郡鴨方にきて城を築き、浅口郡のほかに伊予国にも領地を持っていた。。
細川道董(みちただ)の祖父晴国のとき、なぜか鴨方を出て伊予の松山に移ったという。天文5年(1536)、伊予松山で細川下野守道董は生まれた。
幼少の時期には親戚の河野氏の庇護を受け、川之江で育った。
永禄元年(1558)、道董23歳のとき、毛利元就を頼み旧領の浅口郡鴨方への復帰を図った。翌永禄二年二月、旧家臣たちに迎えられて、大島村
の青佐山(あおさやま)に上陸した。この城はもと大内氏の水軍砦であったが、大内氏亡き後は毛利氏に従う村上氏の支配下にあったと思われる。

 青佐山に入った道董は、山麓に矢形を設け、周りに家臣を配置した。現在、青佐山の山麓の西北に「土居」「土居の下」の地名が残る。
永禄3年(1560)の出雲遠征、同7年(1564)備前竜の口城合戦に従軍、永禄9年(1566)六条院の竜王山に築城し青佐山城より移っている。さらに、
9年後の天正3年(1575)には鴨方の鴨山城に移った。
「陰徳太平記」によると、この間の元亀元年(1570)に松山城の庄高資らが尼子勢と共に鴨方の杉山城に攻め入ったので、道董は城を出て応戦し
衆寡敵せず山手村(現在は都窪郡)の幸山城に逃げ込んだとある。鴨山城築城の前に、杉山城があったことがわかる。

 鴨山城の道董は、天正3年(1575)の三村征伐、天正10年(1582)高松城合戦にも参戦、天正15年(1587)には秀吉の九州征伐の際、小早川隆景
の軍に従って出陣、その帰路長州赤間が関で病死した。
道董の子は元通といい、毛利元清の娘を娶っていた。関ヶ原の後、元通は毛利氏とともに長州へ下り、妻の弟の毛利秀元に身を寄せた。
家臣たちは備中にとどまるもの、防長に下るものあり離散、その多くは帰農したという。

 
大島地区の郷土芸能として今に伝えられる「傘踊り」の起源説話
   貞享3年(1686)七月十三日、細川道董の菩提寺の「長川寺」(ちょうせんじ)で道董公の百回忌墓前祭がおこなわれた。
 近在の遺臣らゆかりの者たちが、武道の形を取り入れた盆踊りを奉納中にあいにく雨が降り出した。
 この雨で刀のかわりに傘を代用して踊ったという。この踊りが大島村に残り、今日に伝わっているのは、この地域一帯が古い歴史のツナガリで細川氏
 との関わりを物語
っているといえる。
 ☆2010/08/14 第17回大島納涼祭 at大島中学校校庭にて「大島傘踊り」を見た。
  
主催は大島公民館、踊り手は保存会のメンバー約40名。19:30時に公民館長の開会挨拶・今年の物故者たちへの黙祷・小中学生たちの踊り・団扇
 踊り・手ぬぐい踊りとつづいて最後に「傘踊り」が踊られた。中央に櫓が建ち、囃子は二名の女性、大太鼓の拍子にあわせて盆踊り型の輪で踊る。
 途中議員さんたちの祝電披露があったのは地域性の顕れか。しかも野党議員の読み上げが与党議員に先行した(w)。閉会・終演は21:30時。夜空
 には三日月が懸かり風が止まって蒸し暑かった。 ⇒ ClickHere
 


 江戸時代以降の鴨方:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


1672年(寛文12年)  岡山藩主池田光政の二男政言(まさこと)が25,000石で鴨方藩を立藩。備中国浅口郡、小田郡、窪屋郡を領有し陣屋を鴨方
              に置いた。通称、岡山新田藩。 ------------- 幕末には青佐山に攘夷のための砲台を築く → ClickHere
1871年(明治4年)7月      廃藩置県で鴨方県となる。
1872年(明治5年)11月     周辺地域と合併し深津県、小田県を経て1876年(明治9年)に岡山県へ編入。
1955年(昭和30年)4月1日   旧・鴨方町と旧・六条院町が合併。面積36.25 km2、人口17,193人、世帯数3,433世帯にて新・鴨方町が誕生した。
1957年(昭和32年)       小田郡矢掛町浅海地区の一部を編入し、面積は36.38km2となる。
1988年(昭和63年)       建設省(現国土交通省)国土地理院の調査により、面積が0.06km2増加に修正され、36.44km2となった。
2006年(平成18年)3月21日  同郡内の金光町、寄島町と合併し市制を施行、浅口市発足。

☆鴨方往来と陣屋
 鴨方往来は岡山藩と支藩鴨方とを結ぶ官道。 岡山城下の栄町を起点に、庭瀬・生坂・長尾・占見を経て鴨方に入り、笠岡の代官所に至る約
 12里(48Km)の道程。
 支藩となった寛文12年(1672)には藩主は岡山天神山の藩邸に暮らし、鴨方には政務所である陣屋が置かれた。当時の陣屋跡には石垣が残存
 表御門、御座敷、吟味場、牢番詰所などが描かた図面が残っている。 -------------- ⇒ ClickHere
 

地勢

  • 山:遙照山(405m)、竹林寺山、阿部山、竜王山
  • 河川:鴨方川、里見川    《寄島港》 現在は漁港、旧名は早崎港と呼ばれて明治元年(1868)に開かれた。当時は北前船の入港で町が賑わい

         北海道・東北からの海産物が入り塩・素麺・木綿を出荷、倉庫・問屋・宿屋ができたが、明治24年の山陽鉄道の開通により衰退した。
(地域文化講演会)
☆2009/09/09 「県西部の文化」講演会
    井笠地域の地形と地質についての講座 ⇒ 鴨方町杉谷、杉谷池周辺にみえる地層と地質の巡検 by 鴨方町屋公園長 定金司郎氏

☆2010/02/27「池田光政による寄宮政策と鴨方藩の神社」⇒寄島町交流館サンパレア by元岡山県立記録資料館専門員 別府信吾氏

☆2011/02~03月「浅口市歴史講座」⇒ 2/5(土)「備中高松城水攻め余話」、2/26 「浅口の絵馬」、3/12「浅口の和算を語る」by額田昭子氏

市内名勝地あれこれ

 
 阿部山▲328.5m(安倍晴明の伝説): ClickHere
 

 晴明は平安中期の陰陽師。日本の陰陽学の大家で、陰陽博士、天文博士にまで進んだ。数々の予知や奇跡を行い、「大鏡」の花山
天皇譲位の予言などは有名。各地に伝説などがあります。

 金光町占見宮中地区: 2011/06/22 訪問 ⇒ ClickHere

道満は平安中期の陰陽師。安倍晴明と争ったと言われ、晴明の遺跡の近くには道満の伝説があります。
迫谷に「道満」と刻まれた墓と五輪塔があり、近くに道満池などがあります。


 
 
かもがた町家公園:日本の歴史公園100選: ClickHere
 

 江戸時代、岡山藩の支藩鴨方藩の中心地だったところで、公園の前を東西に結ぶ「旧鴨方往来」は、当時の藩の政治、経済はもとより、
文化人の交流に欠かせない重要な街道であった。

本園は、この往来沿いに並ぶ江戸時代に築造された二棟の町家を初め、蔵、井戸、土塀、庭園等を修復した史跡ゾーンと、四季折々の古典植物
が楽しめる伝統植物園や芝生広場、展望台のある景観ゾーンからなる面積約6,600平方メートルの歴史公園で、「日本の歴史公園100選」に
選定されています。



 
「明王院」他、伝教大師最澄にちなむ寺院群: ----------2008/11/02 真岳山大護寺明王院訪問記ClickHere


  「明王院」は伝教大師最澄が入唐の際、立ち寄って開いた天台宗のお寺。次いで慈覚大師が秘密灌頂の道場とした。その後、平家滅亡と
運命を共にした安徳天皇の御在所「穴泉の御所」が設けられしばらく滞在したといわれる。寺域が広く、応天門を通り、杉や松がうっそうとした
参道を通ると、境内の客殿や多宝塔、庭園が目をひく。特に、さつきの咲くころが美しい。室町時代に制作された仏涅槃図は、県指定重要文化財。
 
 「長川寺」(ちょうせんじ)曹洞宗。本山は総持寺(横浜市)。寺伝によると、源三位頼政の末裔西山宗久を開基とし、のち1412年(応永19)
永祥寺第三世英巌章傑禅師が開山した古刹である。1575年(天正3)細川通董が鴨山城に拠ると当寺をその菩提寺とし堂宇を整備し、
寺領120石を寄進した。その後、水害・山崩れなどがあったが、十二世徳雲の威神力と細川氏遺臣の末裔の協力で、1704年(元禄17)
現在の本堂・庫裏が建てられた。境内には、通董の墓や岡山藩お抱えの庭師弥兵衛が築いた文化年間の庭がある。

 「円寿院」天台宗。慈覚大師が入唐求法の旅の帰途、この地に立ち寄り、竜王山山中から沸く泉を「未曾有の清浄水」と愛でて修法の阿伽水
として用いたゆかりをもって、後に大師を開祖と仰ぎ、この聖地を阿伽井坊と名付け堂宇を建立したのが始まり。
旧寺跡近くには細川下野守通董が竜王山に在城した際、寄進したという円珠院石造大宝塔一基がある。


 
寄島伝説
:三郎島散策=ClickHere :浅口市HPより 青左山の砲台跡=ClickHere

  仲哀天皇の后、神功皇后は三韓遠征凱旋の帰途、備中の国の沖合いに来ると、景色の良い島々があったので、お立ち寄りになることになった。
これから後、皇后が立ち寄られたこの小島を「寄島」と呼ぶようになったのである。
  さて、いつの頃からか不思議なことに、この島の西南の海中にひょっこり三つの小島ができた。ふもとは互いに連なる一つの島であるが、
潮が満ちてくると三つの島に分かれる。島頂に松が生え風情を添えている。この島は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の三柱の神のお姿である
との神のお告げに、里人はおそれ敬い、「三ツ山」ととなえ、小さい祠(ほこら)を建てて、祭り、さらに寄島の中ほどの「宮の谷」に社殿を建立して
三柱の神を祭った。

 ご滞泊のある日、神功皇后が、島から対岸の陸地に渡ろうと、島の北岸に立たれた。洋々と潮が満ちた海を眺められ、海の上を歩いては
渡れないので、船を準備しようかと思案しておられた。その時、急に眼前の海水が真二つに分かれて一筋の道ができた。
喜ばれた皇后はその道を歩いてお通りになり陸地に着かれた。以来この道を神功皇后の道と伝えている。潮流により、島と陸地の間に長い
砂洲が発達して、海が浅く、潮が引いた時は白い砂洲が現れて、歩いて渡ることが出来るが、満潮時には洲がみえなくなり、とても歩いて
渡ることはできない。
南北に長いこの亀甲型の洲は、瀬戸内海満干潮の分岐点となり、西は豊予海峡、東は鳴門海峡に分かれるのだといわれているが、
この伝説では、皇后の神威で満ちていた潮が引いて干潟ができたと伝えられている。この洲には貝類が豊富で潮干狩に快適で、近郷からも
大勢の人が集まり、黒山のようにむらがって潮干狩を楽しんでいたが、寄島干拓ができて、現在は埋め立てられ島と陸地は舗装された
広い道路で結ばれている。

 さて、陸地に渡られた皇后は風光明媚な海岸を散歩された。疲れたお供の者達は、あちらこちらに席を設けて休息していた。
いくら眺めてもあかない風景を楽しんでおられた皇后も疲れてか「あくらは」と仰せられた。「あ」は自分。「くら」は休む座席で、
「私の休み場所はどこか」と仰せられた。これが安倉の地名となったと伝えている。なお、皇后様がお通りになった道が「宮通」という地名になり、
「みかど」と呼ばれ、「みかど川」といわれる地名や川の名になって、皇后と結びつくのも伝説にあやかるものであろうか。

 寄島(現在の三郎島)の「宮の谷」の上に八幡宮が祀られていたという。八幡宮の下にある谷だから「宮の谷」だという伝説が残っている。
考証によれば、平安時代の中期、長徳3年(997)に社殿が建てられている。これを立証する古瓦が遺跡から発掘されている。
この社の境内に「三郎島の大松、扇松」といわれ航海の目標となり漁船のめじるしとなっていた樹齢500年の大松があったが、
松喰虫の被害で枯死した。 三郎島の宮の谷 ⇒ ClickHere

男性化した女性を女八幡という。「あの女は八幡じゃ」といわれるが、女性であった神功皇后が男装して征韓全軍の指揮をとり、
戦に勝った武功を称えられ八幡宮に祀られたので、そのようにいわれるのであろうか。 この島にゆかりの深い三柱の神を三郎島
(三ツ山)が眼下に見える本島の尾根に祀ったという里人の信仰が後世に伝えられているのである。

☆柴木地区の散策 2010/01/10 ⇒ ClickHere
  柴木とは笠岡市大島との市境、旧浅口郡の大島地区だった処。江戸時代の池田藩の藩校に先立つ儒学の手習所が柴木に設けられた。

SiteLink

 ☆浅口市関係参考サイト一覧










No. 表題 Title   内容 Contents
001 鴨方町家公園:岡山城下から鴨方をつなぐ江戸の道、鴨方往来  画像みる    ↓
     

町家公園
 
 県文化財の指定を受けるには、修復に古材を使うのが条件らしい。
当時、鴨方町が旧高戸邸を買い取りって公園として修理・再生する計画を実施したとき、古材を集めるのに苦労したという。
これらの建屋の概観も立派だが、屋敷の内作もまたすばらしく。江戸時代の職人の知恵と技術がが随所に残る文化財だ。
 '**********************************************************************************************
 鴨方往来について
 鴨方往来とは岡山藩政時代に、城下から放射状に整備された岡山藩六官道のうちの一つ。
山陽道は城下の北側を通っていたが、宇喜多時代に城下へ誘導、迂回させたと云われる。
この往来の起点は岡山城下、栄町仙阿弥橋(岡山城三之曲輪、現在の表町2丁目天満屋附近と推定)より鴨方支藩の陣屋まで。
現在では鴨方から西方、里庄~笠岡~福山までも鴨方往来と呼ぶ人がいるが、どうだろうか。
002  青佐山砲台から望む瀬戸内の射程海域(?) → 位置図: 浅口市寄島町  画像みる    ↓


青佐山
砲台跡


 画面左の島が三郎島

 三郎島は陸続きになっった。
関東電力の灰土の捨て場として旧寄島町が受け入れを表明、埋め立て後の排水工事も終わり現在は住宅地として活用されている。
この島の先端から西へ100m地点(画面では右へ2cm)に見える小島が三つ山島。岩質は角閃花崗岩の山塊で間隔はそれぞれ6m
かっては、それぞれの島に松の木が自生していたという。

☆2010/10/27 「アツケシ草自生地」明治24年(1891)北海道厚岸町牡蠣島で発見されアツケシ草と命名した。アカザ科・アツケシソウ属
         海水の流入する塩湿地に生育する一年草、秋になると全体が緑から紅色に変わりその形状から珊瑚草とも呼ばれる。
         平成15年(2003)に寄島で群生地を発見(非公式にはh3年12月に既にあったという報告あり)、翌年に寄島町天然記念物
         に指定され「アッケシソウを守る会」が結成された。現在137名の会員が登録され保護活動をおこなっている。 ClickHere

☆2008/10/27 青佐山の砲台 青左山の砲台跡=ClickHere
 
 江戸末期の文久3年(1863)、岡山藩主池田茂政は鴨方藩主池田政詮に尊皇攘夷・海岸防備のためこの青佐山に砲台を築かせた。
11/9 両藩主が立ち会いの元に試射が行われたが、砲弾はかろうじて三郎島に達した。
 砲門は南東に開き、砲撃態勢がとられていたが、この寄島沖合に黒船が姿を現すことはついになかった。
お台場は廃藩置県後に撤去となり、砲門は今も大浦神社に保管されているが、砲車だけで砲身は行方不明のままである。 

                                               ☆ 2010/10/03 大浦神社 競馬神事
003
浅口市の偉人群
氏名 出自 事績
小野光右衛門 (1785-1858)金光大谷村の庄屋に生まれる
大谷にはその屋敷跡が残る
井原の測量家谷東平を師とし、天文・暦象・和算に研鑽、嘉永5年(1852)
「啓迪算法指南大成(けいてきさんぽうしなんたいせい)を著す。
赤沢文治 (1814-1882)金光 安政6年(1859)陰陽道の「金神こんじん」を天地愛の神「天地金乃神」と
し金光教を開く。
中島信行 (不詳~1669)総社生まれ後、金光に移住 寛文年間(1661-1673)大谷の中島新田38町歩を開拓、途中他界後彼の
妻が志しを継ぎ完成。夫婦像が大谷の廟に安置されている。
大原焼き 里庄町大原 天平期に行基(670-749)が伝えたという。軟質の土師器で生活に密着した
日常品を生産。大原焼は明治以降、それまでは「砂鍋」と呼ばれていた
杉山城阯 小坂東村(鴨方町小坂東) 後醍醐天皇が隠岐島より復帰したとき、幕下に呼応した備中国人衆
小坂越中守の居城(「安西軍策」・「備中巡礼略記」)

☆サイト内リンク
No  Site name  Location  Coments 
寄島  大浦神社&大例祭2010/10/03 浅口市寄島町大浦  旧八幡宮、安部晴明が霊地三郎島に創建
鴨方  眞止戸山神社(まつばさ)  浅口市鴨方六條院眞止戸山  吉備真備による新羅式祭礼式を廣峯宮勧請
寄島 青佐山砲台跡 浅口市寄島町青佐山  2008/10/18 砲台スペースから三郎島眺望す
寄島 青佐山城跡 浅口市寄島町青佐山  頂上を一度は踏破したいと思いつゝ写真のみup
鴨方 町家公園 浅口市鴨方町鴨方 2008/08/31 鴨山城のお城下通りの商家史跡
鴨方 阿部山にのぼる 安倍晴明伝説 2008/08/19 鴨方・杉谷ルートから車道登坂録
鴨方 真岳山大護寺明王院 伝教大師開基寺・近隣随一の伽藍 2008/11/02 総工費数億円の浄財により見事再建
鴨方 道董公最後の居城「鴨山城」 鴨方町屋公園の往来を右折 2009/11/25 長川寺を訪問、墓所を経て登頂ス
鴨方 細川菩提寺 清瀧山長川寺 鴨山城趾から南東の山裾に在り 鴨方往来には古い時間が止まったまま流れる
鴨方 鴨神社 鴨方往来に面した鴨山の山裾 鴨方に過ぎたるものが三つある。宮の石橋。。。
寄島 寄島天神宮 浅口市寄島町15128 2010/01/10訪問、大島中にも氏子が多い社である
寄島 寄島町柴木地区内遺跡分布 宮の前遺跡・柴木遺跡 県道増築工事で石室破壊があった横穴式古墳
寄島 龍王山城趾 頓宮又二郎父子の居城 後に細川道董が青佐山城より移り住んだという
鴨方 茶臼山城趾 大内義隆が整備したという城趾 山頂には一の丸から三の丸まで削平地が残る
寄島 斎藤別当実盛傳説 柴木実盛には供養塔あり 実盛の嫡子が壇ノ浦合戦後、落ち延びた傳説
寄島 孝子甚助の生家跡と墓所 甚助神社と墓石あり 池田公からの感状は家宝として保蔵
鴨方 頓宮叉次郎入道の墓と居館跡 浅口市鴨方六條院西土井 館の東山に寶篋院塔一基と館の土塁と空豪
寄島 安倉八幡神社 大浦神社に並ぶ境内を持つ社 六條院領の飛地ゆえ眞止戸山神社の末社だった
鴨方 鴨方藩の神社整理、光政・綱政 寛文7年(1667)より実施10,527社廃 宝永6年(1709)鴨方藩寺社奉行所轄で残存4座
鴨方 鴨方支藩の陣屋跡(鴨方往来) 寛文十二年(1672)六月光政隠居 男政言(まさこと)に25千石分知し新田藩とす。
鴨方 細川道董絹本着色肖像画 天正15年道董逝去の日、元通作描 長川寺蔵、原本は江戸期に修復されている模様。
寄島 「アッケシソウを守る会」自生地 2010/10/27 寄島三郎干拓地 明治24年(1891)北海道厚岸町発見された。
寄島 寄島町三郎島散策 2010/12/06 瀬戸内海寄島園地 神功皇后三韓征伐と安倍晴明伝説地を訪ねて
寄島 青佐山城跡へのぼる 2010/12/06 三郎島から大島へ 備中府誌によると青佐山城の開基は安倍晴明
寄島 寄宮政策と池田光政 2010/02/27 寄島サンパレア講演会 鴨方藩内の寄宮による社寺統廃合施策の研究
寄島 福井山12坊、鏡・福井を歩く 2010/12/22 鏡公会堂に集合~ 両地区には坊が点在するが、中心には古墳あり
寄島 尾焼大池&四ツ堂と石碑群 2010/12/25 小野甚十郎之碑を見る 大阪之役の軍功で競馬宰領を池田忠継より拝命
鴨方 円珠院と移転跡地の大宝塔 2010/12/25 尾焼から福井山を経由 寄島から県道64矢掛寄島線北上、福井を過ぎ右
寄島 村上森造翁の顕彰碑 2010/12/12 第六回里庄歴史講座 明治三年寄島町早崎に、貿易商として財をなす
寄島 寄島町の村上森造記銘碑 2011/01/12 旧寄島町役場顕彰碑 中安倉の堤防修築寄贈碑と大浦神社大鳥居
寄島 鳴滝不動明王と殿山古墳 2011/01/12 ごく至近の位置関係だ 最近まで不動の滝は大峰山修験道の行場だった
寄島 青佐八幡神社 2010/12/26 三郎島と同経度、真東 青佐山城の鎮守に相応しい立地に鎮座、創建不詳
寄島  金比羅&荒神社の地神碑  2011/07/20西安倉~中安倉歩く  二基とも自然石型地神、ともに記年号はなし
金光  占見宮中地区の晴明伝説  2011/06/22 道満塚と道満池あり  浅口市公民館で地図を入手、徒歩にて史跡巡回す
鴨方  浄土宗無邊山浄光寺  2011/07/23 鴨方往来に面す  笠岡玄忠寺の末寺、浄土宗は西から伝播か?
 金光  大庄屋小野光右衛門屋敷跡  2011/08/02 金光教が管理地なり  江戸後期の和算術の大家、大庄屋の業績も大
 鴨方  小坂東土井谷の堅牢地神碑  2011/09/01鴨方在住者情報  黄・赤・青・白・黒の五文字を刻む堅牢地神碑初見
 鴨方  地頭上日吉神社の五角地神   2011/09/01鴨方在住者情報  天照大神・大己貴命・少彦名命・保食命・埴安姫
2011/08/05 更新 09/07/15