境内からは鳶の子山が正面に見える
陶山山長福寺、現在は「観音堂」or「長寿堂」と呼ぶ
 貞治元年寅(1362)歿、明源院殿輝代姫孝全忠精禅大姉、陶山藤三義高の正室の開基なり。
訪問DATE: 2010 08 11 

『興亡史跡笠岡城物語』陶山義興氏著より要約

 『輝代姫は義高公の討死の後、小田郡神島の神島
山自性院に至り、尼となり改名孝全と名乗り、今立村に
一宇を開基す。
陶山山長福寺と号し、その本尊は行基菩薩の阿弥陀
仏如来像を安置し、その菩提を祈った。貞治元年(1362)
四月十八日、輝代姫逝去、行年六十三才。
葬去後に姫が常に懐中にせし聖観音を長福寺の本尊と
して祀っている。その聖観音の震書には陶山義高妻と
彫込記載があるという。
この陶山山長福寺は現在(1980現)の国鉄里庄駅より山
手に向かう畦道を行くこと四キロ、山の中腹に現存して
いる。同寺は荒れ果てたままの無人で、仏降壇も雨漏り
床まで崩れ落ちたままに放置されていた。それでも戦時
中まで住む人もいたとのこと。
 草むす中に陶山山長福寺と彫り込んだ手水鉢を左に、
数段の石段を上ると右手に鐘楼の跡だけが残り、生い
茂る雑草はありし日の輝代姫の姿を忍べるには、ほど
近い訪ずるもののせめてもの回向を慰めには役だって
いる。』

下図の写真はこの記事のページに添えられた長福寺
2010/08/11 JR里庄駅を起点に探しはじめて三度目の正直!
 今日の天気は台風四号の接近で雲が多く夏日のつづく狭間にあったのが訪問を決意させた理由のひとつ。
里庄に「長福寺」はないが、今立に「正福院」ならあるよ、という情報が突破口となった。電話帳から「正福院」を探すと園井に
あった。今立と園井とは隣あっている至近距離である。電話に出られたのは御住職さんで今立にあった「長福寺」を尋ねると、
「長福寺」なる寺はないが、無人の庵で「長寿庵」ならば、ある。との返事であった。でその「長寿庵」の所在を尋ねると今立本谷。
ゼンリン地図で本谷を調べた。すると何と不思議なことが。。。。。ゼンリン地図には「正福院」と記名されて今立と園井の二箇所
に掲載されていた。ご住職の電話では詳しくは現地で尋ねてみてください、とのことだったので今立本谷まで車で出かけ、遂に
発見。地元では「観音さん」と呼んで年に一度法要をおこなっているとのことであった。陶山一族とのかかわりや「長福寺」という
寺名は知らないとのこと。戦時中に誰か疎開していたことは覚えているが戦後は無住となり、本谷住民でお守りしている、と聞く。
周囲は果樹園で葡萄など緩やかな山の斜面の畑に削平した境内に石段・寶篋院塔・地蔵尊像・本堂・千手観音石像堂・鐘楼堂あり。

位置図: 笠岡市今立本谷
『輝代姫略歴』
 正安二庚亥(1301)三月四日、小見山治郎行忠の娘。正和年中(1312~1317)義高の妻となる。岡田氏著作では没年は延元年中(1336-1340)九月二十五日入寂とある。戒名は上に同じ。
<そのPhoto>境内石段本堂全景(石段は左端)、本堂扁額(陶山山と読める)寶篋院塔&地蔵尊像(別に台座石あり)、本堂御本尊(聖観音立像)千手観音堂(平成21年再建)
☆現地の認識 「今井地区 歴史を語る遺跡・文化財」 by 今井公民館 平成2年1月刊行より、引用
 『長福庵跡
  陶山義高云々の伝承は全く虚構、江戸中期の創建、山陽自動車道着工前に倒壊』と書かれている。位置は「観音堂」の場所と思われるが、山陽自動車道工事で移設したのか?
 山陽自動車道笠岡ICの共用開始が1988/08/01昭和63年である。「興亡史跡笠岡城物語」の刊行が1980年(s55)であるので掲載の写真は高速道工事以前のものと思われる。
 しかるに、伝承は全くの虚構だと断言した根拠は何であろうか? また現存の本堂・観音堂・鐘楼堂や石仏についての説明もないのは不親切だろう。