小田郡 今井村
中世笠岡の遺跡発掘「園井土井遺跡」
今井村の履歴書:「笠岡市史」第3巻からの抜粋。
現在今井地区と呼ばれる地域は園井・今立・馬飼・広浜・絵師の旧5村の地域である。
古くは漁渚・甲弩・後月などの時代には漁渚郷25ケ村に属していたが、江戸時代(1840頃)正保郷帳から明治7年皇国地誌にある村名では先の
5村名であった。ただし園井と今立村は関ヶ原の後、小堀支配からはずれて慶長九年から10年間、甲弩・吉田とともに旗本岡氏の支配地となる。
笠岡を水野支配時は松山藩池田氏支配、寛永からは天領となり享保年間からは広浜・馬飼・絵師とおなじく笠岡代官所支配地となる。
その後、明治22年(1889)6月1日 備中国小田郡は町村制施行に今立村の「今」と園井村の「井」を合成し今井村が誕生した。
この時期誕生の25村は次ぎのとおり。
(笠岡市13村)笠岡村・金浦村・今井村・城見村・陶山村・大井村・吉田村・新山村・神島内村・神島外村・北木島村・真鍋島村・北川村
(矢掛町7村) 矢掛村・美川村・三谷村・山田村・中川村・川面村・小田村 (井原市5村) 富成村・美山村・宇戸村
(旧美星町 → 井原市)、大江村・稲倉村
明治24年(1891)10月23日 笠岡村が町制施行して笠岡町となった。(1町24村)
昭和26年(1951)4月1日 今井村が笠岡町に編入された。(4町21村)
昭和27年(1952)4月1日 笠岡町・金浦町が合併・市制施行して笠岡市となった。(3町20村)
今井村の構成:おなじく「笠岡市史」第3巻からの抜粋。
園井村:石鎚山西麓丘山の村。園井土井遺跡で中世の居館跡が出土、樹齢四百年の楠の諏訪神社があり神域荘厳にして明治16年
「地籍総計」では田二八町余、畑四九町余、山林一〇二町余とある。石高395石(天保郷帳)
今立村:今立川の水源域の村。花崗岩の風化土壌が堆積し天上川を形成、周辺には池や溜池が多い。繰綿・藺筵がこの村の明治初期の民業。
石高471石(天保郷帳)
馬飼村:谷底平野で三日月湖に由来する馬飼沼が排水と灌漑両面機能を果たしてきた。営々として荒地から荒田へ、荒田から熟田へ耕地整備
の歴史を刻む。石高118石(天保郷帳)
広浜村:農地集落で明治九年『村誌』に牝牛15頭・荷車17両とある。明治六年に遡る渡辺淳一郎の偉業頌徳の岡山県桃栽培発祥の地碑あり。
明治9年の戸籍帳は42戸、同年16年5月は48戸だった。石高95石(天保郷帳)
絵師村:應神山東南の崖錐に立地した塊村(不規則に家屋が集合して塊状の平面形を示す集村)。明治9年と同年16年5月『村誌』にはいずれも
37戸、田が三反二畝九歩だった。石高101石(天保郷帳)
(注:)天保郷帳とは、
天保5年 (1834)、江戸幕府が実施した全国の村毎の石高調査書。江戸郷帳の正保・元禄・天保の三郷帳のなかで、村名63,795村は最も充実。
村内の池
大迫池(おおさこいけ)園井:寛文9年(1669)彦坂九平次代官時代造成[1反2畝14歩]、天野(天王)池:園井:築成時期不明[1町2畝小池15箇所]、
臂池(ひじいけ)園井:池に沿うた峠道を「ひしがたわ」という。園井村の枝村・菱村があった。正保図にあり。先の15小池のひとつ。
中竹池(なかたけいけ)今井:寛永12年(1635)延宝検地帳[6反1畝20歩]、金山下池(かなやま)今井:寛永16年(1639)延宝検地帳[6反1畝20歩]、
われ池(青池):馬飼:延宝2年(1674)[7反7畝10歩]、鵜の池(卯の池)絵師古坊:延宝2年(1674)富岡新田造成にともない築成[1町7反7畝22歩]
園井と今井の統治:毛利元康退去後の支配体制は園井・今井の2村と絵師・馬飼・広浜の3村は異なる。後者3村は笠岡と同じ体制。
①旗本岡家俊が約10年間、②池田長幸・長常の領有が約25年続いた。
長常卒去後、池田家は改易となり天領となる。(園井・今井・吉田・大戸・新賀・走出・甲弩)
延宝五年(1677)池田氏の後を継いだ松山藩主水谷勝隆が幕命により天領8ケ村の検地を実施。「延宝検地」と言われるもの。この検地高は明治
まで継承された。
天和三年(1683)8月より庭瀬藩主久世重之の所領となる。 ~貞享三年(1686)正月、久世氏は丹波国転封後天領となる。
文政10年以降、今立村は一橋領となる。
元禄11年以降、福山水野家改易に伴い天領となる⇒馬飼村・広浜村・絵師村
| 関ヶ原後の支配体制: |
池田長幸家系図(資料:「Wikipedia」より) |
①旗本・岡家俊(おかいえとし)の領有 陣屋は吉田村
宇喜多氏は室町時代に備前の守護だった赤松氏の守護代浦上氏の家臣だった。浦上氏の勢力伸張に合わせて頭角をあらわし、その後消長はあったものの宇喜多直家が備前一国を支配したことで戦国大名の地位を獲得した。直家は斉藤道三などと並ぶ戦国の梟雄と呼ばれた。岡家俊はこの宇喜多(秀家)に仕え、後に家康に仕え関ヶ原で采地6千石を賜う。慶長9年(1604)より大阪夏の陣までの約10年間、園井・今立・甲弩・吉田を領有した。岡家俊の子平内は大阪方に加担、父子ともに元和元年7/29京都妙願寺で切腹し岡家断絶となった。
②大名・池田 長幸(いけだ ながよし)の領有 元和3年~寛永18年(1641)長常卒去後、改易まで
池田長幸は元和二年8月15日笠岡城に入城。
翌三年2月、小堀遠州の残務処理を待って松山城に移る。空城になった笠岡城は廃棄された。
笠岡市域内で長幸の知行が確実な村は、笠岡・小平井・東大戸それと岡氏から没収となった園井・今立・甲弩・吉田を加えた7村である。
池田長幸・長常の治世は二十五年間、この間詳しい治績記録はないが米の増産を図り灌漑用の池の造成をおこなった記録が今立村の延暦検地帳に残る。
(中竹池と金山下池:是者寛永拾弐年乙亥(1635)池田備中守領地之時新池床ニ成) 市史の編者は備中守は誤りであり、当時長常は出雲守のはずだという。
「Wikipedia」より池田長幸
天正15年(1587年) - 寛永9年4月7日(1632年5月25日))は、因幡国鳥取藩の第2代藩主。備中松山藩の初代藩主。父は池田輝政の弟で、鳥取藩の初代藩主・池田長吉(長幸は長男)。母は伊木忠次の娘。正室は森忠政の娘・松子、継室は森忠政の娘・宮子。子に長常、長純、長信、長泰、長重、長親、娘(水野成言の妻)、鶴(森長継正室)、娘(堀直時正室)、娘(荒尾宣就の妻)。官位は従五位下、備中守。幼名は次兵衛。慶長19年(1614年)、父の死去により後を継ぐ。元和3年(1617年)2月、5,000石加増の6万5,000石の上で、鳥取から備中松山へ移封された。藩政では新田開発、元和5年(1619年)の福島正則改易時の三原城在番を務めた。寛永9年(1632年)4月7日、46歳で死去し、後を子の池田長常が継いだ。法号:承国院殿蔭涼宗樹大居士。墓所:岡山県高梁市上谷町の威徳寺。
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今井地区のみどころ:サイト内リンク
| No |
表題 |
事 跡 |
備考 |
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(広浜)広浜城跡 |
標高80mの丘陵の山城。地元の方々の伝承によれば城主は四国河野一族の勢力とか、築城時期遺構など不詳。 |
2009/05/19 |
| 02 |
(園井)園井城跡 |
園井龍王山の古城、城主・築城時代など不詳。近接して鳶ノ子城と園井土井遺跡があることがヒントかも。 |
2009/04/26 |
| 03 |
(園井)諏訪神社 |
樹齢四百年の銀杏に象徴されるように中世武家社会の邑がこの社の周りにあった。土井遺跡から居館跡が出土。 |
2009/05/04 |
| 04 |
(絵師)鵜ノ池 |
應神山東端から南に向けて下った位置にこの池がある。旧絵師村・富岡新田の灌漑用池だったが今は田はナシ。 |
2009/11/14 |
| 05 |
(今立)観音庵 |
貞治元年(1362)63才で逝去した陶山藤三義高の正室で小見山行忠娘輝代姫開基の陶山山長福寺跡地と思ゆ |
2010/08/11 |
| 06 |
(園井)正福院 |
真言宗弥陀山正福院、創設年月は不詳、境内の五輪塔の最古の記年号は天和元年(1681)辛酉二月朔日とあり |
2010/08/11 |
| 07 |
(園井)四ツ堂 |
諏訪神社からやや北方へ、吉田村への分岐路に四ツ堂がある。水野支配を受けていない地域での四ツ堂だ。 |
2010/11/15 |
| 08 |
(園井)土井遺跡 |
園井の新幹線ガードを越えて山陽道高架が見える辺りに遺構があったという。区画・標識・遺構は何もナシ |
2011/01/19 |
| 09 |
(絵師)路傍石仏 |
應神山東端麓の大歳神社・荒神社・薬師庵の周辺に建ち並ぶ路傍の緒仏たち。その中に市指定中世仏龕あり。 |
2012/02/10 |
| No. |
表題 Title |
内容 Contents |
| 001 |
園井 園井龍王山(笠岡追分から北方を眺望) |
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追分の風景(鳶ノ子城と園井城)
笠岡村の北の要害となる最重要地点である。この追分の峠はかって井笠鉄道ですら登坂に苦しみ乗客たちが下車して車輌の後押しを
したという伝承が残るほどの山越えの道だ。笠岡の町を北方からの侵略に備える地点としてまず物見のためにために築かれたのが下追
分団地の鳶の子山城だった。この城の北側に位置する園井の龍王山山頂にも城があった。園井城である。(写真右正面)
城と城との直線距離は僅かに200m、しかも園井城からの眺望は東西往還の東方を眺望する位置にある。両城は姉妹城であったと思わ
れる。時代は南北朝から室町・戦国、笠岡からこの一帯を治めていたのは陶山氏である。
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| 002 |
広浜 「山王宮」(日吉神社) |
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拝殿 |
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山王宮縁起 「今井地区・歴史を語る遺跡・文化財」by 今井公民館 より
祭神は 大山咋神(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ:大歳神の子)、別名「山末之大主神」(やますえのおおぬしのかみ) あまり聞かないこの祭神をインターネットで調べると、次ぎのとおり。
『山の神、比叡山の地主神、神仏習合による天台密教の護法神 神社:日吉大社本宮、松尾(マツノオ)大社、日枝神社に祀られる。大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者 の神を意味する。古事記では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とす ると記されている。大山咋神に関して、丹波国(京都府)の浮田明神にまつわる古い伝承がある。それによれば、太古の昔、丹波の 国は湖水であったが、大山咋神がその湖水を切り拓いたので、水が干上がって国土となった。人々はこれを感謝して祠を建てて祀ったという。この話から連想すれば、大山咋神は国土開発の神であったことがうかがえる。実際にその御神体は鍬であるというから、農耕信仰の守護神として崇められたのだろう。伝承で大山咋神が発揮したとされる神威は、稲作農耕の初期における原初的な土木技術と考えられる。人々は神が司る洪水や旱魃などの自然現象から、灌漑用水の開鑿技術を学んだ。そして、そのヒントを与えてく れた山の神への畏怖と感謝の気持ちから、大事に祀るようになったのである。』
創建時は不明。元禄12年(1699)福山水野藩断絶の後に池田藩によって実施された「元禄検地帳」には「山王社他地15歩、田三畝弐歩、山林 四反四畝廿十歩」と記されている。
水野記には『広浜村、明神社・権現社・山王社、右三社の社領5反3畝10歩 小早川隆景寄進、毛利元康没収』とある。
現在の拝殿には棟札があり「明治12年9月21日建立」とある。

広浜と小早川隆景の地縁について
天文21年(1552)付、広浜の小寺十郎左衛門尉元武は小早川隆景の志川滝山城後略後、東進笠岡進攻に伴い対村上隆重調略の功により広浜に知行を与えられている。(天文21年(1552)付、知行宛行状「萩藩閥閲録」田畑二町七反歩)
広浜城があったとされる土地には城山という小字が残っているが、土塁などの城郭としての遺構は残っていないようである。
以上の状況は笠岡の支配が陶山から大内・毛利への移行期の戦局であり、陶山一族なき後の尼子勢とのせめぎ合いの様相であろう。笠岡に馴染み深い備後国人衆渡辺杢之允正や井上伯耆守春忠などが歴史の舞台に登場する背景の説明とそのストーリーである。また同じ時代に、笠岡の近隣の神辺城をめぐる攻防では尼子と毛利の二大勢力の軋轢に吉井正霊山城主藤井皓玄が翻弄されている。なお広浜の小寺十郎左衛門尉元武は小早川隆景の志川滝山城後略後、東進笠岡進攻に伴い対村上隆重調略の功により広浜に知行を与えられている。
(天文21年(1552)付、知行宛行状「萩藩閥閲録」田畑二町七反歩)
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003
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中世の遺構発掘「園井土井遺跡跡」 |
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発掘風景
資料館の
展示品 |
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稲穂の刈り入れを待つ園井の穀倉:
☆園井土井遺跡: 発掘された区割り等、標識類もなし。写真では正面にみえる橋梁が山陽新幹線で、遺跡はちょうどこの写真の手前。
山陽自動車道の工事ちゅうに発見された。諏訪神社の南側・山陽自動車道高架下で、出土品の多くは笠岡資料館に展示されている。
鎌倉・室町時代の武家の居館跡と目される遺跡で17棟を超す住居跡を示す柱穴・溝跡・土師器・硯・碁石などが出土している。
当時からも水田があり田園風景がひろがっていたことだろう。
園井地区には「土井」「馬場」「石丸」「溝手」など、城下を連想させる小字が残る。
「宮ノ前」に鎮座する社は「諏訪神社」、境内には樹齢四百年のクスノキが聳え立っている。これらの関連性は?
諏訪神社 → ClickHere
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2009/10/28作成 |
12/02/
10更新 |

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