| 備中後月郡 戸木荒神山城 (△120.0m)伊達大蔵の在城、弘治年間(1555~) 頂上へは未踏、伝伊達大蔵墓所より本丸を望む風景 訪問:2011/02/03 |
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| 伊達大蔵の「居城」趾、「居館」趾 そして伝「墓所」 |
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| 戸木荒神山城趾 (「井原市史」&「わがまち出部」より) 「古戦場備中府誌」によると最初に顕れる城主は伊達大蔵。関連遺蹟として城から東へ2.5Km七日市町の平地に 東堀・西堀・南堀・北堀で囲まれた250x200mの伊達大蔵屋敷と呼ばれる堂々たる規模の方形居館跡がある。また、 北へ300mほどの平地に伊達大蔵の墓と伝えられる寶篋院塔が一基残っている。この附近は道城(どうじょう)という 地名で他にも新殿(しんでん)・馬場添(ばばぞえ)などの城下関連の地名が残る。 この伊達氏は弘治年間(1555-15558)に高越城主伊勢長左衛門尉長盛と軍之森(いくさのもり:現出部小学校付近)で 交戦し滅亡したという。その後、尼子氏配下の吉岡新左衛門・田中清左衛門が在城した。川相の中山城主河合重元は 吉岡の館を焼き討ちし城を奪取、尼子の援助で奪還を図った。吉岡・田中氏は尼子・毛利の抗争に翻弄された後、両氏 とも毛利秀包に属したという。毛利支配下の城代として楢崎氏・大橋氏の在城が伝えられる。 「わが町出部」では平安時代末期に長田庄司忠致(ただむね)が在城し、忠致の屋敷跡は今でも下出部町長田という 地名で呼ばれている、と書かれている。 元禄元年(1558)神辺城主杉原理興(ただおき)の死後、毛利元春の推挙を受けて城主となった杉原盛重が神辺城に 入城した。この決定に不満を抱いた藤井皓玄は伯父の河井豊前守高列をさそい神辺城奪取を画策した。永禄二年五月、 大友宗麟との密約であった松浦党からの鉄砲を野々浜で三日間待ったが不着、毛利軍に察知され皓玄は京都に逃げた。 一方河井高列は吉井への帰路に戸木荒神山城主吉岡新左衛門尉政栄に攻められて自害した(川合系図)。 毛利氏は吉岡に使いを送り「豊前守(高列)は節儀の士ゆえに助けおくべし。追って領地の沙汰に及ぶべし。」と命 じた。高列は「吾が跡を弔い下されたし」と吉岡に頼み、果てたという。(この箇所「井原市史」) この高列の供養塔が吉岡家の墓所に残っている。 ⇒ 河井高列慰霊碑ClickHere ☆2011/02/03 上出部在住のMさんの案内で七日市町の伊達大蔵の屋敷跡から見学(写真右上)。 200m四方を水濠で囲った遺構の土手部が畔道となって残っていたと聞いた。そこから車で2Kmあまり西に移動して、 伊達大蔵の墓所を探した。場所は田圃が住宅地に置き換わってなかなか発見できず、ご近所に訊ねてもも三人目の方 がやっとそこの場所を教えてくれた(写真右の中段)。 10坪ほどであろうか、団地の合間に空地があって、「戸木荒神山城主伊達公墳暮」という真新しい標識があった。 公墓と伝わる墓は地蔵尊像が浮彫された寶篋院塔で、その周りに五輪塔の一部が集められていた。 また戸木荒神山城が落ちるとき、伊達大蔵の姫君が腰を痛め「腰折れ地蔵」という小祠に地蔵尊像が祀られている。 その場所は国道313号を少し北に入った処で場所は定かではない。 写真中央が戸木荒神山城で南北に細長い本丸を北側から見た城姿である。周囲の山と較べて特に高い山でもなく、 井原市史の説明によれば出部から峠を越えて大江町~笠岡へ抜ける間道を見下ろす位置にあるという。 この戸木荒神山城が今なお語りかけていることは、井原の出部地区が毛利VS尼子の最前線であったこと。伊達大蔵 が同じ井原の伊勢氏によって滅んだことは隣合って暮らしてきた住民同士が優劣を競いあう時代であったこと。水濠に 囲まれた居館と墓石が460年を経て存在している姿は往時の隆盛と衰退が土地の記憶として刻み込まれていると思う。 ☆2011/03/22 更新 偶然、ウェブで「腰折れ地蔵」の記事にヒットした。井原の熱い季節さんのブログである。以下、引用させていただく。 (上記サイトに写真もあります) 『下出部町の大曲に祀られています。民家の一角をしきって建てられているので意外と目に付かないかもしれません。 伝説によると、戦国時代に「戸木荒神山城」が夜襲にあい敗色が濃くなったため、城主の「伊達大蔵」が姫の新姫に乳母 や若干の武士を従わせて高屋の「小見山城」へ逃げさせた。ところが、間道を逃れる途中で姫は岩場から足を踏み外して 腰を打ってしまった。従者の武士達もことごとく討たれてしまい、姫と乳母は焼き橋の森まで逃げるが姫はついに死んでしまう。 そのとき『わらわをここに葬るべし。庶民には腰の痛みを治さん。されど武士には鬼神となりて戦わん』という言葉を残して 果てたという。乳母が敵に知られぬように姫を埋葬したのが、腰折地蔵の場所だという。』 この伝説から判ることは、伊達大蔵は東からの伊勢氏の攻撃を受けたが、城の西に位置する小見山城へ遁れようとした ことから小見山氏とは友軍の関係にあったことがうかがえる。弘治年間(1555-15558)の小見山城には誰が居城していたの だろうか?小見山氏の同族である陶山一族は永正年間(1505-1521)には本貫地とした笠岡においては衰亡したと云われて いる。また小見山城と隣あった高屋城には藤井氏が居城した。皓玄が神辺城の二番家老として高屋城を管理していたのは 皓玄の仕えた神辺城主杉原理興の死去、弘治3年(1557年)までである。言わば高屋城落城がこの同時代に重なるわけで、 神辺城争乱と戸木荒神山城は何らかの関係があったのかも知れない。 位置図: 井原市下出部町道城(どうじょう) |