| 井原市大江の「滝山城」 別名「三郡山城」、備中国小田郡・後月郡・備後国安部郡の郡界線上の要塞。 |
訪問DATE: 2009 10 31 ![]() |
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| 「滝山城」(遍照寺山△70m)いばら史談会報より この場所は、神辺平野が東部県境付近で特に狭まって おり、山麓近く高屋川が西流し、また旧山陽道がこれとほ ば平行して通じている外、山陰山陽を結ぶ旧石州街道も またこの付近で山陽道と交差するという、まことに古来交 通運輸上の要所を押える位置にあり、平地より七十メート ル余の高さに過ぎないが、戦略的価値は高い。 この滝山に初めて城を築いたのは、備後の豪族宮氏の 一族の一人であった宮三郎義兼といわれている。 天文21年(1552)の志川滝山合戦で宮一族と毛利軍が激 突する。この大江滝山城も落城し城主宮入道光音・常陸 守光寄は討死(宮三郎義兼、同常陸守兼光入道光音、 同常陸守光寄の三代)。攻方の毛利の家臣宍戸孫六家 安が入城した。その16年後の永禄11年(1568)7/3 朝靄 をついて藤井皓玄と大江田隼人祐広則が攻め落した。 皓玄は翌年に有名な神辺城占拠に成功するものの2ヶ 月後に敗送、その後は後、毛利に服属した宮下総入道 応政が天正年間(1573-91)奪還し居城した。秀吉の朝鮮 出兵の頃、文禄元年(1592)九州下向のさいこの辺りの 城は廃城となった。 |
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2009/10/31 Created 「滝山城」にかんするサイト検索 → Hit 「毛利元就とその一族を探求するページ」 HP この滝山に初めて城を築いたのは、備後の豪族宮氏の一族の一人であった宮三郎義兼といわれている。 『小田郡誌』には「宮氏」につき次のように述べてある。 明応元年宮三郎義兼、備後深安郡山野村より来り、本郡大江村に滝山城を築きて居る。 後常陸守兼光入道光音を経て 孫光寄に至る。光寄天文二十年毛利氏の為に追い出され、 後京都に病死す。旧記に城を落ちしは光音と陰徳記に見えたけれ ども、実は光寄が時なり と云ふと福山志料に云へり。 然るに正確なる史料によれば、毛利軍が備後に進入して宮光寄を逐ひしは、天文二十一年 七月二十三日なり。(萩藩閥閲録) 而もこは深安郡広瀬村四川滝山城のことなり。 されば大江村滝山城は、四川滝山城の枝城 にして、同一城主なりと見るべきが如し。 (注 文中の四川は志川の誤記) また『西備名区』の記事にも、志川滝山城について 御領、滝山城、是を陰徳太平記に所謂滝山城と云ひ、城地は備中に懸れりと云ひ、主名も 又同じ。されど此ほ滝山の上 に志川の二字あり、御領には只、滝山とのみあれば、此を宮の 本城とし挙之。 と記されている。また城主についても両者とも、宮三郎義兼、同常陸守兼光入道光音、同常陸守光寄の三代となっている。 |
位置図: 井原市大江町滝山 <井原古城サイト内・リンク> 工ガ城 → ClickHere 高越城 → ClickHere 高屋城 ⇒ ClickHere 2009/10/31 井原鉄道の高屋駅から旧山陽道を西へ歩いた。 子守歌の像を見て国道486号線を北へ渡ると旧い商家 の立ち並ぶひっそりとした道にでる。 そして県境碑まで歩く。 高さ3mもあるだろう、トラックが旧碑を折って新装され たそうな。この碑を左折して直進。 小田川の対岸に滝山城が見えてくる。 |