小田川を眼下に治める戦国武将早雲の「高越山城」
 東には猿懸城、西には高屋城、南には笠岡の城は見えた!?
訪問DATE: 2009 03 13 

高越城と北条早雲(現地の説明文より)
高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇
都宮貞綱(うつのみやさだつな)に命じて作らせたと伝
えています。
戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那
須氏に代わって荏原庄(えばらしょう)を治め、この高越
城に居城していました。伊勢新九郎盛時(後の北条早
雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享4年(1432)父伊
勢盛定の子としてこの地に生まれました。
新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法
泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都
伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱
の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今
川家に身を寄せました。
新九郎は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして
初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。その後、
伊豆国、相模国を治め、88歳で亡くなるまで、北条5代
100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁となり
ました。現在も高越城は、山陽道・小田川を眼下に本丸
を含めて5段の郭で構成されており当時の状況をよくと
どめています。

2009/03/13 Created
 360度の眺望は素晴らしい。生憎の小雨に遭って遠くまでの眺望は望めなかったが、頂上の説明にある「蒙古襲来」をも見張るべき
瀬戸内海も、晴れ渡った日だと目視可能かもしれない。蒙古襲来は弘安4年(1281)、当時後月郡を治めていたのは那須氏であった?
宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな、1266年(文永3年) - 1316年8月13日(正和5年7月25日))は鎌倉時代中・後期の武将。宇都宮氏
第八代当主。弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では執権・北条時宗の命を受けて九州に出陣した。その功績により戦後、
引付衆の一人に任じられた。
 その後、室町時代の享徳2年(1453)、伊勢新左衛門尉行長がこの地の城主となる。行長の子・新九郎盛時は後の北条早雲である。
幾多の合戦を経て、天正9年(1581)より毛利氏家臣、鬼ノ身城主・宍戸隆家の属城になる。関ケ原の戦いの後、廃城となった。


位置図:井原市神代町(高越山)
<早雲関連>

  伊勢新九郎の薬師堂 → ClickHere

  菩提寺「法泉寺」 ⇒ ClickHere


☆2010/09/11 笠岡資料館40周年記年特別展 「井笠歴史展」
 北条早雲画像
この絵は早雲菩提寺「法泉寺」蔵、絹本着色、描かれた時代は江戸前期と推定されている。
翠雲齊占龍軒(すいうんさいせんりゅうけん)という絵師に描かせたもので、
横x縦が38.3 x 87.7cmの画像。北条早雲は井原においては伊勢新九郎盛時と名乗り、永享
四年(1432)にこの地を治めていた備中伊勢氏の当主・伊勢盛定の子として生まれた。
成人した後、盛時は本家の京都伊勢氏の養子となり、幕府に仕えた。「伊勢新九郎盛時」の
名は文明13年(1481年)から文書に現れる。文明15年(1481年)に将軍義尚の申次衆に任命
されている。長享元年(1487年)奉公衆となる。また、京で幕府に出仕している間、早雲は
建仁寺と大徳寺で禅を学んでいる。
その後、駿河国今川氏に
嫁いだ妹北川殿と嫡男龍王丸を輔佐するために駿河国に下った。盛時は駿河国で今川氏
の家督争いを収め、恩賞として駿河国東端の興國寺城の城主となった。盛時56才の時だ。

 














 長谷山曹洞宗 法泉寺:井原市西江原町4841

☆2011/02/10 高越山城 「岡山の城と城趾」岡山文庫s43.11刊 藤井駿・市川俊介著
 『弘安四年(1280)蒙古襲来の報に、九州はもちろん山陽道にも多くの城砦が築かれた。
このとき、この高越山城も北条時宗の命により宇都宮貞綱が築城したと伝えられる。その後、享徳二年(1453)伊勢新左衛門行長が、荏原など六箇村を合わせ三百貫をもらってやってきた。
伊勢氏は平重徳十五代の子孫で、伊勢氏貞の子である。行長は享徳二年(1453)に、古潤仁泉を開山に法泉寺(井原市長谷)を建立した。この伊勢行長の子孫が代々備中守を襲名している
ので、高越山城主とをったように思われる。行長の子新九郎長氏は、長じて有名を北条早雲となる。新九郎の出生地にはいろいろ説があるが、この城が最も有力である。長氏は大志を抱き、
高越山城を一族の伊勢新左衛門隆資にゆすった。旅にでる前に備中吉備津宮に一夜参籠し、ご神託を受け東国に向かい、駿河の今川氏をたより、しだいに勢力を強大にし早雲と号して、そ
の名を天下にとどろかせた。
 いっぽう、この城主隆資は平穏無事にすごしたが、子貞春が城主になると、政治に暗かったため財政困難となった。貞春の子伊勢又五郎が十六歳で出陣したが討ち死した。これから伊勢
氏は滅亡の運命に見舞われた。天正九年(1581)には、この地は毛利氏の支配するところとなり、高越山城は宍戸安芸守に属し、木村平内・神田六兵衛が在城した。
慶長五年(1600)関ケ原役ののちは、この地は天領となり、備中総代官小堀新助の治政下に入り、高越山城はまもなく廃城と在った。』