| 井原市木之子の「才崎城」趾 城主は渡邉大隅が在城し、同六兵衛が相続したと伝えられる(「井原市史」)。 |
訪問DATE: 2011 07 31 ![]() |
![]() |
| 「才崎城」(標高△92m、比高55m)「井原市史」を引用 この場所は、稲木川の南に位置し眼前には木之子の 水田地帯が一望できる場所である。「才」は要塞の「塞」 からの転用だと市史は云う。西に250mほどの場所には 縣主神社があり、更に800mほど先に馬越氏の三輪崎 城が在る。 この城趾の特徴として、中世城下の痕跡が残り、民家 の脇に畝状竪堀を見ることができる。中世山城を学習 教材として恰好の城である。城趾は標高85mの地点で 主郭は長さ28m、幅16~10mの台形をなし、裾にはぐる りと帯曲輪郡が取り囲んでいる。城の山には集落が近 接し、民家のすぐ裏手の藪の中にも畝状竪堀の痕跡を 止めている。 城の北は城を背負った谷口に当たり、「堀」という地名 が残る。ここには豊かな湧き水があり、当時領主の館 である根小屋を構えていた可能性が高い。城の南は通 称「小鍛治」と呼ばれる土地で、打刃物趾だと云われる。 |
|
|
2011/07/31 Created 「渡邉大隅」にかんするサイト検索 → Hit 「川上郡成羽町 渡部氏の一族」 HP このサイトには成羽町の渡部一族は木之子高崎城の城主渡邊大隅守弟、大蔵少輔正元を祖とすると書かれている。 大蔵少輔正元の歿年は永正十一年(1514)、井原市史には渡部大隅の年代が書かれていないが、高崎と才崎の一 字違いではあるが、弟の歿年から渡部大隅の生存年代もほぼ同じ時代になるであろう。 別資料の木之子在住の郷土史研究家I氏の書いた文献には才崎城の初代城主は渡部襲であるとする。母は小見山 次郎の娘で、時代は鎌倉の末期。陶山藤三義高、同吉次や小見山氏真らと行動を共にし、北条仲時に従ったと書いて いる。この記事の出典は渡部氏系譜とだけ書かれている。 わたしがこの城にたどりついたルーツは、大島中村の竹田にある竹田稲荷にある説明板の記事からである。 ここの稲荷社には創建時植樹されたと伝わる巨木「あべまき」が境内に今でも生育を続けている。稲荷社の伝承では 元和三年(1617)に稲荷社創建、井原木之子村から浪士渡部与四郎の移住に伴ってこの場所に勧請した、と明記され ている。大島の竹田稲荷の周辺には渡部・渡邉姓の家が何軒か集まっており、渡邉大隅の末裔と思われる。 成羽町の渡邉系図を書かれた方のHPにはこの大島渡邉家の系図も掲載されている。 ⇒ 大島渡邉家系図 この系図では渡邉大隅の孫にあたる與惣四郎彦久という人物が竹田稲荷の人物に該当するのであろうか? 詳細系図があれば、照合すればより明確になるであろう。 大島渡邉氏の末裔に渡邉太惣治(文化14年[1817]~明治30年[1897])がいる。 鴨方藩士として仕え、和算に長じ高梁川堤防工事や長浜・青佐山台場築造に業績を残した著名人である。 |
位置図: 井原市木之子町円地 <井原近隣の城趾サイト内リンク> 工ガ城 → ClickHere 高越城 → ClickHere 高屋城 ⇒ ClickHere 荒神山城 → ClickHere 2011/07/31 鎌倉時代以降の渡邉氏の活躍はこの備中・ 備後地方にかけてよく痕跡を止めている。 しかしいずれも断片的情報であり、氏族の全貌 を俯瞰できるような文献にはHitしていない。 思いつくままのサイト内リンク↓ 常国寺と渡邉氏(備後熊野一乗山城)ClickHere 茂平高丸城(渡辺杢之丞正) → ClickHere 小平井常福寺(小平井城近隣) → ClickHere |