池田家陣屋址
  
現在では第十代目領主 池田長発の年譜と銅像が建つ
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第十代目領主池田筑後守長発《天保8年(1837)-明治12年(1879)》いけだながおき
幕府直参旗本・池田長休(ながやす)の第四子、江戸の西窪で生まれる。
嘉永5年(1852)に井原1,200石の領主で同族の池田長博(原字のハクはサンズイ)の養嗣子となり、長発と改名、家督を継いで池田筑後守長発と称
し雅号は可軒を使った。
幕府の昌平黌では秀才と称えられ、和書・漢書・洋書に精通し、槍術・馬術・鉄砲術の名人でもあった。長発は27才の若さで幕府の外国奉行に抜擢
され文久3年(1863)12月には遣欧使節の正使としてヨーロッパに派遣された。ナポレオン3世との面会やスフィンクス前でのスナップ写真など有名。
その後、日本開国論を唱え、幕府方針にそぐわず蟄居の処遇となるが、慶応3年(1867)には勝海舟とともに軍艦奉行となり活躍。
晩年明治になって、岡山へ移住、43才で死去した。

【旗本池田家の成立】池田家が井原知行の経緯by「井原市史」抜粋
 旧井原村は関ヶ原合戦の後、幕領となり小堀親子の支配と成った後、元和三年(1617)鳥取6万石藩主池田長幸(ながよし)は池田光政の姫路か
ら鳥取への移封に伴い5千石加増となって備中松山藩に移封となった。これによって井原・北山・西江原・東江原の各村が松山藩池田領となった。
寛永18年(1641)9月、池田藩主長幸の長男長常が死去し松山藩池田家が断絶した。これにより井原の松山藩領は幕領となったが、長幸の三男の
長信に旗本池田家の知行所1,000石を与えた。これが旧井原村の池田家で長発は始祖長信から数えて第10代当主となった。

「幕末遣外使節物語」夷狄の国へ by 尾佐竹猛氏 1989/12 講談社学術文庫
文久三年(1863)12/29 に横浜から仏軍艦「モンジュル」にて出発(上海まで)、正使池田筑後守長発(28)副使河津伊豆守(44)目付河田相模守
(30)など一行34人と和蘭(オランダ)生まれの仏人ブレッキマンが通弁として随行した。(出立の日は西暦では2/6に当たる)翌年の元治元年(1864)
1/6 上海着、1/7上海上陸。1/13 仏郵船「ヘーグスプ」乗船1/19出帆。欧行記には「飛脚船の美は海客送迎の為の使者なれば極めて壮麗清潔
なり。」とある。1/23仏領サイゴン着、上陸。1/25発、1/26新嘉坡(シンガポール)着、墓石を見て「爰はいまだに漢字其様日本と同じ」(青木日記)
1/27発、2/3錫蘭(セイロン)着、「天竺の地なれば上陸し釈迦如来のお寺を拝す」
2/5 仏船「エルショウ」に乗換。2/12亜丁(アデン)、2/19蘇士(スエズ)上陸、汽車に乗る。夜埃及(エジプト)カイロ着。2/23国王謁見、2/28ピラ
ミッド見学、この写真は三宅雪嶺氏所蔵す。3/1国王招宴。3/3発、夜10時アレキサンドリア着、3/4 14:00仏船「ベルリン」乗船。3/10 15:00マル
セーユ着。「これまでの国々と違いその美麗宏壮に千感万嘆、誰もが呆れた。。。。此辺の有様と我日本とは斯く迄違ふのであるかと慷概悲憤す」
3/11市長を訪問、午後は博物館・公園、夜は芝居を見物す。「夜出て瓦斯の気の火の明るさに吃驚、夜も昼の如く提灯を用いる人なし」3/15発、リ
ヨン経由巴里入る。ナポレオン3世皇帝に謁見、国書を奉呈、具足・大和錦・太刀・蒔絵の箪笥等を贈る。その他の官吏には縮緬を贈り好評を得た。
3/20外務省外相を訪問、4/14大観兵式、4/18劇場観劇す。奉行らは5/17巴里発、その他は4/20発でマルセーユで合流、4/26英船に
乗船し4/27発、6/3アレキサンドリア着、英船乗換後、7/18日に横浜着。遣仏使節派遣目的の横浜鎖港が未承認に終わったことが主原因だが、
長発は帰国後、江戸にのぼり将軍に復命し帰朝の趣意弁明と各国との条約締結、留学生派遣などの建白書を出したが、その日に押込めとなり
禄は半減、隠居を命じられた。精神静養と一子福次郎を連れて井原に帰った。
幽棲(ゆうせい)中に巴里撮影の写真に、「愧被功名誤一身 幽棲此日亦逢春 春風芳草五州夢 涙洒当年旧写真」
明治12年歿、享年42才、大正四年に正五位を贈られた。孫の長堅氏は目下大阪居住す。
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