| 毛利元清支配下の「亀迫城」趾(かめざこじょう) 2010/05/22 井原市西江原、標高70m、城主は毛利元清家臣宍戸安芸守 |
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| 史趾「亀迫城」かめざこじょう 案内版 |
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| 室町時代の末期、天文二年(1533)から元亀元年(1570)まで、三十八年間備中松山城(高梁市)の城主・荘備中守為資と長男・ 荘備中守高資の父子が西江原を支配していた。 元亀元年(1570)川上郡成羽城主・三村備中守家親は毛利氏の援軍を請うて松山城主荘備中守高資を討った。この時毛利氏は 備中の国一円を掌握しようと毛利元清を大将として本部(後月郡)へ兵を進め、敵を防ぐ要路に位置するこの地に亀迫城(砦のよ うな小さい城)を築いた。元清は、宍戸安芸守を守衛に任命し、その家臣木村平内と神田六郎兵衛の二人を郡代として常駐要害 山砦を修理し、逆茂木(敵の進攻を防ぐために丸太を削り、その突先を外側に向けて組んだ柵)を南は小田川を渡って木之子の 称屋ケ端(ねやがはな)まで立てめぐらし、軍備を構え、亀迫城を拠点として小田郡の中山城、船ケ迫城、奥ノ城をつぎつぎに 攻略し、遂に猿掛山城主・穂井田実近を攻め滅ぼして、猿掛山城の城主となった。 慶長五年(1600)、天下分け目の戦いと云われた「関ヶ原の合戦」で、石田三成、毛利輝元ら西軍は徳川家康の東軍に惨敗した ため、毛利氏は備中など中国地方八カ国の領地を没収、周防・長門の二国(現山口県)に減封されて、当地は徳川幕府が支配した。 この頃に亀迫城は廃城されたと思われる。 平成十年八月吉日 西町自治会 西江原史蹟顕彰会 井原市初代市長 大山文雄顕彰碑 氏が西江原町の出身者であることからこの公園に胸像と頌徳碑が頂上に建っている。その碑文には、大山文雄(明治15〜昭和 47年)行年91才は、法曹界の人。陸軍法務局長を歴任し国際極東軍事裁判においては戦犯の弁護団を勤めた経歴を持つ。 昭和28年の井原市誕生に際しては市長選挙に出馬し当選。じらい連続三期12年を勤めた。 位置図: 井原市西江原町 |