井原市今市附近の史蹟「高瀬舟 船着場」
  
by西江原史蹟顕彰会 による標識あり  訪問:2010/09/18
Back ⇒ ホーム

国道313(486)号線、今市の雄神川合流点より小田川の下流を眺望す
小田川北岸の高瀬船船着場>正面に架かる橋が錦橋、木之子〜岩倉・下稲木町への西行ルート
 『井原市史』によるとこの小田川を利用した高瀬舟の水運は江戸時代から明治にかけて見られたと誌されている。小田川という
河川名称に統一されたのは明治以降のことでそれまでは山野川・吉井川・七日市川などと呼ばれていた。この川の水源が広島県
三和町に発し芳井町・井原市・矢掛町・真備町を経て高梁川へ合流している。高梁川という呼称もまた明治以降の命名で、川島川・
川辺川・松山川などと呼ばれていたが、明治時代になり備中高松が高梁と改称されたことにより松山川から現在の高梁川となった。
江戸時代には船穂に高瀬舟専用の閘門や水路が整備され、玉島湊までの搬送ルートが完備されていた。

写真右は上から「船着場」標識から小田川上流方向をみる。遠景の町並みが井原市中で、途中何カ所か他にも船着き場があったという。
写真右中央は石積の様子。船着き場だけあって石垣前面の川は深く、子供の頃には泳ぎ場としてよく遊んだ記憶が残るという話を聞いた。

写真右下、この写真は地元井原在住の定光さんからのいただきモノ(定光氏撮影)です。以下、受信したメールの説明によりますと
「この常夜灯は元錦橋(写真上の橋)のたもとにあったが、現在は、我々の氏神様がある甲山八幡宮の境内に移されております。
 説明板には、『この石燈籠は慶長九年(1604)小堀遠州政一が備中領内巡視の時、甲山八幡宮の大患平癒の霊験を得て、今市木之子
渡しに建立したと伝わるが、別説口碑には遠州が高瀬船の便を図るために小田川畔に設置した石燈籠の一つであると云われる。
(by西江原史蹟顕彰会)』」
という情報をいただきました。筆者は甲山八幡神社にはまだ参拝していませんが、次ぎの機会には是非石灯籠と説明を見ようとおもいます。
常夜灯が小田川の導灯として設置されていたとすれば、夜間の運航も可能であったわけで、かなりの賑わいと物流量が想定されます。
また、高瀬川の完成が慶長16年(1611)なので、高瀬舟という呼称よりも導灯設置が旧いことになり、高瀬舟という語源は何だろう?と不思
議に思えたり、、色々と興味ある事柄に関連するお話です。ありがとうございました。(2010/09/25)


高瀬舟(Wikipedia他)
 高瀬舟は河川や浅海を航行するための船底の平らな木造船である。室町時代末期頃の岡山県の主要河川(吉井川、高梁川、旭川等)
で使用され始め、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。帆走もしくは馬や人間が曳いて運行され、物資の
輸送を主な目的としていた。

一方、森鴎外で有名な高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために
物流用に開削された運河である。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。 伏見は京都の一郭で、
ここから安治川を経て大阪へとつながっている。伏見港は幕末期には坂本龍馬が船宿である寺田屋を常宿としていたのは有名だ。
伏見には、豊臣秀吉が陸上および河川の交通を伏見城下に集中させ、宇治川と濠川(ごうかわ、ほりかわ)を結ぶ形で港が設けられ交通の
要衝となり、三十石船が伏見と大坂の間を行き来した。


高梁川の河川交通(備中地域広域観光振興協議会)http://www.pref.okayama.jp/bichu/tetsunomichi/hc_sonota.html

 高梁川流域の河川交通の歴史は古く、鎌倉時代の徳治2年(1307年)に支流成羽川上流の難所だった瀬を開削した経緯を刻んだ「笠神の
文字岩」(高梁市備中町平川)からもうかがい知ることができる。16世紀の戦国時代には、浅瀬を乗り切るために生み出された船底の平らな
高瀬舟による兵站輸送が行われており、世が平穏になると高梁川中流の松山(現・高梁)は、物資の集散拠点として、にぎわい始めてゆく。

慶長9年(1604年)、全国の河川交通開発に着手した角倉了以(すみのくらりょうい)は、吉井川の高瀬舟を範としたといわれ、すでにこの頃に
は、県内の三大河川で高瀬舟が活躍していたようだ。

                                                    位置図: 井原市今市
image0007.jpg

2011/01/22(追記)  甲山八幡神社を定光さんに案内を乞い訪問、小田川畔の元位置も視認す。
 小堀遠州政一が高瀬舟の導灯として、この石燈籠を小田川の川畔に建立したと伝えられる。
案内板には数基の石灯籠と書かれているので、さしづめ港の航路筋に設置された浮標のように舟の目印になるよう設置されていたのであれば、同種の規格品
がここからさほど遠くない処に現存していると思うが、そんな情報はないようなので当面はこの一基のみが制作された可能性のほうが高いと思われる。
元位置である小田川へ案内していただいたのが右の写真。
今市の錦橋の橋の上から南東へ流れる小田川下流を見た風景、遠くに見える橋が馬越橋である。
高瀬舟がここを往来していた慶長年間に錦橋がこの位置にあったとも限らないが、水量と水深を眺めた限りではこの辺りが舟の終着場所ではなかろうかと
おもえる状況であった。つまり錦橋の北西側にある舟着き場が上の写真。写真に錦橋が写っている。ここから上流は水路幅も狭くなっている。
右の写真の左手に石積の護岸が見える。この護岸の敷地に屋敷があったのかもしれない。いずれにせよ小堀遠州政一が石灯籠を建てた場所として見れば
大いに納得する景観である。
反面、高瀬舟の本場であった高梁川の備中松山藩の玉島湊築造
の経過を見ると、寛永元年(1627)藩主池田長幸が長尾内新田10町
歩(10ヘクタール)を干拓したのを端初として、関東の常陸国から
松山藩主として移封された水谷勝隆(みずのやかつたか)が前任者
池田長幸の新田開墾の土木工事を継承して高梁川を南へ伸ばし
ていった。その後、新田の用水確保の「高瀬通し」の着工は万治2年
(1659)と伝えられる。つまり高瀬舟交通網は玉島〜高梁間の河川
交通流であることを考慮すれば、小堀遠州の導灯設置年代は少し
時代が遡りすぎるとも思えるがはて?

 左の絵図はそのコピー画が、井原図書館の階段にも懸かっている
有名な安政年間に描かれた「備中江原八景絵図」に書き込まれたる
常夜灯である。幕末に今市の船着場の下流に在ったことは間違いない。
一基のみであることから船着場を示す導燈である説は有力だと思う。
安政八年(1859) 備中江原八景図 by 横田芳水画(讃岐の人)
 (同上繪図、常夜灯は赤枠表示)
 常夜灯が書き込まれているのは今市の宿場の東口にあたる場所。
錦橋附近は中州になって、吉井川には橋が二本架かっている。
常夜灯はこの中州の中央に建っている。夜間に灯が入れば、高瀬舟
からは格好の目標となる燈火である。上りの舟は右舷に燈火を見て、
下りの船は左舷に燈火を見ながら航行したであろう。
この常夜灯の西側(繪図では左)に雄神川が注ぎ込んでいる。
舟着き場は雄神川の手前にあった。ちょうど今市本陣の裏側に面して
辺り。高瀬舟の終着点を示していたと思われる。