藤井能登守皓玄の居館跡「有井城」
 正霊山と向き合った坂本の山の中腹に在ったという一門の聖地である
訪問DATE: 2010 05 20 

皓玄の居館「有井城」趾(写真○印「牛舎屋根」附近)
 正霊山城から西へ約2Km、坂本の南麓に居館があっ
た。藤井能登守皓玄は神辺城を一旦は奪取したが、二
カ月後の永禄十二年(1569)八月三日に始まった毛利方
からの反撃を受け落城を余儀なくされた。
この時、神辺城主杉原盛重は毛利軍に参戦し、九州で
大友義鎮(よししげ)と交戦中であった。留守役の武将
楢崎三河守豊景(芦品郡久佐村・久佐楢崎城主)・村上
佐衛門大夫祐康(鞆の大可島おおがしま城主)・三吉大
炊介隆亮(三次畠敷村の比叡尾山城主)らに城を追わ
れた皓玄と子息市之丞は城を出て逃亡の途中、西大
島石砂で討たれた。
この時、高屋城と正霊山城も相次いで敵の攻撃を受け
たであろう。その後、神辺城から最も東に位置するここ
有井城にも敵の軍勢が押し寄せた。戦闘要員以外の婦
女子をふくめあわせて三百人あまりの藤井一門の人々
がこの地で落命したと伝えられる。
平に削られた居館跡は最近まで牛舎として使われてい
たが現在では無人。緩やかな山の斜面の雑木の奥に
は墓石が散在している。藤井一門の関係者のみが知る
一門発祥と同時に敗戦という屈辱の聖地である。
 

2010/05/21 Created
  「居館跡からの眺望」 → ここまでの径ゆきは、芳井町の役所の前を東進し山に当たって斜面を登る。三方を山で囲んだ
                   自然の要害だ。この日案内をしてくれた藤井さんもこの場所を探し当てるまで2~3回は足を運
                   んだそうだ。藤井さんの話によるとこの有井城を築城したのは皓玄の父好重の時代で、正霊山
                   の完成もおなじく皓玄の父の時代には整備されていたと云う。唯一開けた西方からの幹道が眼
                   下に伸びる風景は「有井城」の名にふさわしい武将の居館のたたずまいである。
                   

   藤井氏の著作「乱世の舞 藤井能登守皓玄」によると皓玄の出生は永正三年(1506)だと書かれている。時代は室町、第
 11代将軍足利義澄の在位中である。とくにこの年、隣国笠岡では陶山高雅が笠岡山城を村上氏に開放し野に下った時期に
 あたる。中央の政権攻防から下克上の風潮が地方へと波及し、群雄が割拠する戦国時代へ舞台が廻り始めた頃であった。
 永禄12年(1569)8月、藤井皓玄は一旦は奪取した神辺城を明け渡し無念の落城、落ち武者として逃走中に西大島石砂で64
 年の生涯を閉じた。妻は河合髙列の娘、この間に四男一女あり。長男新助好吉(広好)は神辺城で討死、次男市之丞好貞は
 皓玄と共に大島へ落ちて自刃、三男喜三郎好友は正霊山城にて討死、四男好恒はこの時幼き故に成羽の城主三村親成に
 預けられ、後に美作字本丸城主小坂家の養子となり小坂信濃守利直を名乗る。その子に娘お登久が生まれ、三村親成の養
 女となって水野勝成と結ばれる。この後の物語の展開は福山城主となった水野勝成を中心として藤井一門の舞台は福山へ
 と移ってゆく。長女一豊姫は、若くして消渇を患い病没。死後消渇神社に祀られて高屋城が見える山の中腹に鎮座している。
 
 

位置図:井原市芳井町西芳井坂本
『有井城は、山に囲まれた盆地の西端山麓にあり
 僅かに石積みの遺構と墓所があり、住居跡かと
 思われる。』(芳井町文化財)

 <藤井皓玄関連サイト内・リンク>
  正霊山城  →  ClickHere
  高屋城    →  ClickHere
  滝山城    →  ClickHere
  大島石砂慰霊碑 → ClickHere

立石定夫著「神辺城と藤井皓玄」は皓玄研究の集大
成であり、父子二代にわたる著作である。同書をはじ
めとする皓玄事蹟の断片資料を集めたレジメです。
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『皓玄の本拠』
  田中の南側の山麓に古い廟所がある。中に陪玄の菩提墓というのがあって、里人が時折香花を典じている。昔ここに臨済宗善住庵(後転証して善自庵)があった。
 寛永年間(1624-1644)の戸河助右衛門の検地、並びに延宝年間(1673-1681)の水谷左京亮の検地の際に『寺屋敷六間、十二間弐畝十二歩臨済宗善住庵但寺有』
 と記載した検地帳が残っている。この庵は、重玄寺の末寺であったが、境内に半鐘台と銀杏の大木があり、昭和の代まで残っていたと云う(『川相誌』)。
 皓玄の四男藤井利直が、後に神辺合戦の余波を受けて備中に脱出し、後、小坂道斉となって帰ってきて医業を営み、住居を構えたのもこの田中であった。
 (立石定夫著「神辺城と藤井皓玄」)