井笠市稲木・岩倉地区の地神柱3基 (大門在住Fさん情報で訪問)
  この地区の共通項は石灯籠の併設か?   2011/01/28
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下稲木馬場迫公民館の前(右碑とは2Kmの距離)
岩倉町の釆山・胡麻迫三叉路消防庫の東隣
 井原市域の標準的な次ぎの五神名が刻まれている。
天照大神、大己貴命、少彦名命、埴安媛命、倉稲魂命。
方角は若干ずれている気もするが定かに非ず。基壇に小石をを
積み上げて背伸びしているように見えるのは常夜灯の灯袋の見
合なのか。馬場迫公民館の敷地と思われるこの場所は元位置で
はなく、移設されてここに落ち着いたと思われる。
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井原市上稲木村の所轄沿革
 「井原市史」に書かれている稲木村の所轄藩主の変遷は、
『上・下稲木村は元禄十一年(1698)五月、備後福山藩の断絶に
より高屋村・大江村と併せ四ケ村は幕府領となり、文政十年
(1827)に一橋領へ移り明治維新を迎える。』
 つまり、この地神碑が建立された時期が江戸末期だとすれば
岩倉の碑と同様に一橋領として西江原代官の統治下にあった。
備中村鑑[渡部正利著、万暦元年(1860)]によると、
一橋殿御賄料御陣屋西江原 御代官 井口善兵衛様
石高は上稲木村 五百三拾三石八斗五升四合、山足谷助・佃
熊太・吉本久作、下稲木村 六百四拾九石八斗八升三合、谷元
一郎、同宇平次と記されている。
 この碑の五神名も左の碑と同じく天照大神、大己貴命、少彦
名命、埴安媛命、倉稲魂命が刻まれている。
場所は県道笠岡井原線を采山・胡麻迫分岐を西に入ってすぐ
岩倉消防団の消防庫の隣。写真のとおり地神碑と石灯籠、更に
その右隣に小祠が並んでいる。この祠には○に金の神紋があっ
て四国琴平の金比羅宮を勧請したものであろう。金比羅には石
の灯籠がつきものではあるが、わたしの目には地神碑との釣り
合い関係(異常に短足)ではないかと思えるがどうでしょうか。
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井原市岩倉村の町の所轄沿革
 左に同じく「井原市史」による所轄の変遷は、
『関ヶ原合戦の後、幕府領となり小堀政一の支配地となる。
その後、慶長7年(1602)に旗本糟屋氏が領有し、慶長14年
(1609)再度幕府領となる。元和三年(1617)から松山藩池田
氏領。天和三年(1683)から貞享三年(1686)の庭瀬藩久世氏
の所領の三年間をのぞいて幕府領、更に内藤氏・脇坂氏など
の統治を経て文政十年より一橋領となり明治維新まで続く。』
なお、『備中村鑑』に書かれた村石高は、四百六拾三石五斗
四升六合、撰伊十郎・山崎宇十郎・丸山達次である。
附近略図:井原市下稲木町馬場迫 附近略図:井原市岩倉町西ノ谷

下稲木片山、しわく商店の前
2010/01/28 再訪時、発見!
 写真で左に見えている道路が県道井原福山港線である。
この地神碑の立つ位置はGレベルから10メートルばかり小高
い山の削平地、崖崩れ防止として法面にコンクリートが吹き付
けられていた。写真手前には小祠が2基、金比羅宮と天~宮
のお札が祀られている。そして、その隣には常夜灯が一基、記
年号ははっきりと読み取れる。道路側の正面に「金比羅大権
現」側面は「常夜燈」「文政十四年丑十月吉日」(1817)と彫ら
れていた。五角柱の五神名は北面に天照大神、大己貴命、少
彦名命、埴安媛命、倉稲魂命の時計廻り。基壇は小さいが
極めて標準に近い型である。
ただ、写真上の二基の碑とはちがって常夜燈が地神碑から
かなり離れているので、ここでは金比羅宮の小祠に祀られた
ものであろう。しかし往来でもない処の常夜灯は不自然である。
想像で物事を決めつける訳には行かないことは百も承知だが、
人の往来のない高所であること、行き止まりであること、コンク
リートが打設された露地に並んでいることから、この神域は道
路工事によって集められ、移設されたものと思われた。
道ゆき目印はリカーショップしわき店の対面の山側斜面です⇒ 附近略図:井原市下稲木片山
下稲木・岩倉町の地神碑2題0000.jpg