備中後月郡 川相中山城 (△139.0m)河合豊前守行重の築城、文明二年(1470)
 
頂上に稲荷社、中腹に五輪群、麓に天神社あり  訪問:2010/08/24
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川相の史書、藤井定市著「川相誌」より参照
 
川相の変遷
 川相の里は備後との国境に位し岡山県後月郡に属しており、明治22年6月1日以降は隣邑吉井村、天神山村と合併して足次(あすわ)村となった。
その後同37年4月1日芳水村(与井、簗瀬、梶江、宇戸川の旧四ケ村の合併)と合併して芳井村と称し大正13年10月1日より町制を施行し芳井町となった。


 写真上①:「川相誌」の口絵より。中山城は小田川と鴫川(しぎがわ)の合流する山峡に聳える。また川相なる知名も川の合流する処の意味か。
 写真中②:山頂には稲荷神社が鎮座。麓の上り口にある説明板にも初代城主河合豊前守行重の勧請と伝えられている。
 写真下③:登頂道の入り口の案内板。
       「川相小学校裏にある中山城は文明二年(1470)河合豊前守行重が築いたと伝えられています。本丸部分は
       17m x 53m の長方形で三段築城。東西に空壕跡があり中腹には五輪塔も多数残っています。本丸に祠られ
       た稲荷大明神は築城の際に河合行重が勧請したと云われ、またふもとにある天満宮も行重によて延徳元年(
       1489)に建立されたと伝えられます。
       戦国時代、河合氏は吉井の正霊山城主藤井氏と姻戚関係を結ぶなどして勢力をのばしていきましたが、三代
       城主河合重元の頃には毛利氏の麾下に入って活躍しました。天正九年(1581)、備前八浜での宇喜多直家と
       の戦いにも参戦し軍功があったと言われます。
                                         平成 十七年 三月    井原市教育委員会
 写真中央: 城内中腹にある五輪塔群


河合氏の出自について(藤原家の流れを汲み「下がり藤」の家紋説と近江源氏説の二説あり)

 藤原氏の流れを汲み家紋は「下がり藤」、鎌倉時代には佐々木を名乗り、建保元年(1213)和田義盛の乱に北条義時に属して軍功を立て、川上郡河村
の地頭に補せられ河村を姓とした。
南北朝時代に至り、太郎左衛門尉行房が後月郡河相村に移り河相を姓とした。文明年間(1469-87)豊前守高則が中山城を築き中山城主となり、河井を
名乗って毛利に属した。吉浜村の釣頭河井伝衛門の祖は、河相高列の弟(父は高清)で中山城家老職にあったとする。
その孫にあたる河井賢正は関ヶ原合戦後に帰農し吉浜村川中に移住す。四代~六代までの通称を三右衛門または伝兵衛と名乗った。
(関藤不二男氏著「よしはま物語」より)

一方、「川相誌」は近江源氏にて佐々木氏なりという。
「河合豊前守行重(高重、高清、源五郎、兵馬之介)は河合大炊介行吉の子なり(一本に行則の二子にて行吉の弟とせり)武勇秀でて名あり、文明二年
(1470)中山城を築いて之に居る、河相を河合に改む(一本に河村を河合に改む)。城主行重は応仁の乱では東軍の細川勝元に味方し上洛す。その後、
大永三年(1523)尼子晴久が中山城を攻める。行重は大永五年(1525)卒す。行重は城内に稲荷神社と天満宮を勧請し、後の再興される。
二代城主は行重の子高列(重行、大炊介)。天文年中下出部村戸木荒神山城主吉岡新左衛門と不和にて屢々争う。
隣邑吉井村正霊山城主藤井能登守皓玄は高列の妹の子にて高屋城を兼帯し、備後神辺城主山名理興の第二家老たりしが、理興歿後子なくして毛利家
の推挙により第四家老の山手村銀山城主杉原盛重が神辺城主となりしことを憤慨して去り、自己の持城に楯籠りしところ、永禄元年(1558)毛利の軍押し
寄せ来たりしかば走りて高列の許に身を寄せ来たる。その頃高列は行重以来尼子氏に属す。(後略)
三代城主は高列の子清久(勘解由左衛門尉重元)。高列歿死後に備後西城城主九条氏に仲介を頼み毛利麾下に入る。」
(藤井定市氏著「川相誌」より)


                                                    位置図: 井原市芳井町川相
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