カット・路線図は井原鉄道HPから転載です
2009/01/11 開業10周年記念イベント
井原線ワンコインデー(開業は平成11年)
当日は雪が舞う寒い日曜日でしたが、大勢の人でにぎわいましたよ。
photo click here
井笠鉄道記念館(旧「新山駅」)⇒
ClickHere
井笠鉄道路線駅舎跡(部外リンク)⇒ClickHere

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001  井原市の観光スポット by 井原市観光協会   観光オフィシャルサイトです。
002  井原市役所HP 市立図書館が充実しています→ここ 井原市立図書館の蔵書検索
003  井原鉄道 ここから分岐して →  井原線に乗ろう会
004  井原観光おすすめコース  井原鉄道を利用しての観光です →   土・日・祝日「ペアフリー切符」大人2人用(2300円)
005  井原市立田中美術館 平櫛田中の人物・作品紹介です   
006  井原鉄道 神辺~井原~総社をつなぐ鉄道  平成11年(1999)11月11日に開業 


井原市の文化と伝統


 茨という古名あり、井原は井戸水の湧き出る原っぱ、小田川の豊富な伏流水の町

政治的変遷

井原町公式HPより抜粋:美しい自然 息づく文化 笑顔でつながるひと 元気発信都市いばら

 井原市は昭和28年4月に市制を施行し、先人たちのたゆまぬ努力と英知により岡山県西南部の中核都市として、着実な発展を遂げてまいりました。
平成11年1月には地域間交流の基軸となる鉄道井原線が開業し、また平成17年3月1日には、更なる飛躍を期すべく、井原市、芳井町、美星町が合併し、新生井原市として新たな一歩を踏み出したところであります。
本市におきましては、合併後の喫緊の課題であります、市域の均衡ある発展と一体感の醸成に向け、新市将来構想・建設計画を着実に推進してまいりますとともに、『市政は市民のためにある』という原点に立ちながら、市民の皆様との対話を通じ、より魅力にあふれ、誰もが誇りに思える新生井原市の構築に全力で取り組んでまいります。
 新たな魅力満載の井原市にぜひお越し下さい。(市長挨拶)

沿革  1619年 - 水野勝成 が福山藩に転封となり、市の西部は福山藩領、東部は一橋領・(備中松山池田藩)となる。寛永19(1642)年より池田家知行
     1697年 - 西江原に森氏 二万石の西江原藩が成立。10年間存続。
     1698年 - 水野家5代藩主水野勝岑死去。福山藩断絶により、現在の井原市分の大半は天領や旗本領になる。
     1871年 - 明治維新後の廃藩置県により、福山県に編入、のちに改称され、深津県 へ。
     1872年 - 深津県 と倉敷県が統合し小田県へ。 
     1875年 - 小田県のうち、旧備後5郡を除いた地域は岡山県へ編入。 1889年(明治22年)市域は井原村12村となり、明治29年井原町となる
     1953年(昭和28年)04月01日 - 後月郡井原町・西江原町・高屋町・荏原村・木之子村・県主村・青野村・山野上村、小田郡稲倉村・大江村の
           3町7村が合併し市制を施行。
     2005年3月1日 - 後月郡芳井町、小田郡美星町を編入。

地理  一級河川高梁川の支流である小田川が広島県神石郡神石高原町を源に北から南に流れ、市の中心部で東方向、矢掛町方向に流れを変える。
    北と南を山・丘陵に挟まれた盆地を形成している。また芳井、美星地区をはじめとする市内北部は標高400~500メートルの石灰岩質のカルスト
    台地の上に集落が広がっている。

     山: 高滝山(506m)、遙照養子山(406m)、鷲峰山(399m)
     河川: 小田川、星田川、美山川
     ダム: 鬼ヶ嶽ダム、第二星田ダム

 
歴史観光スポット

① 那須与一伝説: 「与一」とは十あまり一、つまり11番目の子につける名前。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測される。また元暦2年(1185)2月19日、四国屋島の合戦で弱冠17才の那須与一は、扇の的を見事一矢で射落とした軍功により源頼朝から備中国小田郡荏原荘の他4ヵ所の領地を賜った。武蔵国太田庄(埼玉県行田市)、丹波国五賀庄(京都府亀岡市)、若狭国東宮荘(福井県)そして信濃国角豆荘(長野県)である。十郎為隆を除く九人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。しかし、後に出家し、屋島の戦いからわずか数年後(「寛政重修諸家譜」では文治5年(1189年)8月8日、「続群書類従」では建久元年(1190年)10月とある)山城国伏見の泉涌寺即成院において死去。即成院には与一の墓が、また菩提寺として嘉慶元年(1387)那須頼資が、嗣子織部正弘と能登国から高僧実峰良秀を招き、開山一世として地元井原の才児に禅洞山永祥寺を建立した。また野上町余次には後年、荏原那須一族がその祖与一を偲んで建てたという墓がある。この墓は、扇の的の一射必中の故事にあやかって、古くから願い事がかなうと伝えられ、近年は、特に受験生やそのご家族の方の参拝が多い(永祥寺には袖神稲荷社がある)。☆2009/05/28 「那須与一公墓」と「永祥寺」を訪ねました → ClickHere

② 北条早雲伝説:早雲は備中荏原庄(現在の井原市)高越城主伊勢盛定の子として、永享4年(1432)に生まれた。本名は伊勢長氏、通称は新九郎で早雲は、出家後の号である早雲庵宗瑞からきている。現在、井原市内の高越城跡には「北条早雲生誕之地」と刻まれた大きな碑が建てられています。後に早雲は、京都伊勢氏の養子となり八代将軍足利義政の弟、足利義視に仕えましたが、応仁の乱後は駿河守護今川義忠に嫁していた妹を頼り駿河に赴きました。そこで早雲は義忠死後の今川家の内紛を纏めた功により、長亨元年(1487)に興国寺城主(現在の沼津市)となり、義忠の跡を継いだ義忠の子 氏親(義元の父)を補佐しました。
☆2009/03/13 高越城(たかこしじょう)へ上る
 → ClickHere  新九郎薬師堂 → ClickHere
その後、関東一円の内紛に乗じ、将軍家に連なる足利一族の茶々丸追い落とし、伊豆一国を乗っ取ることに成功したことが、「下克上」に象徴される戦国時代の始まりといわれ、早雲は最初の戦国大名ともいわれています。
明応4年(1495)には、難攻不落といわれた大森藤頼の小田原城を策略を用いて陥れ、永正13年(1516)には名門三浦氏を滅ぼし、相模国(現在の神奈川県)も手中に収め、永正15年(1518)、長子の氏綱に家督を譲った後、翌永正16年、韮山城で亡くなりました。享年88歳でした。

③ 森近運平と大逆事件: 生家跡に建てられた森近運平刑死50周年の記念碑は、井原市高屋町にある。
森近運平は明治13年(1880)、高屋で生まれ岡山県庁職員をしながら社会運動に身を投じ、明治43年6月14日、自宅で拘引されます。
世に言う大逆事件で、明治天皇の暗殺を企て、政府転覆を図った罪で、運平はじめ全国で多くの人が続々と逮捕されました。
身に覚えのない運平は当初無罪を予想していたようですが、明治44年1月18日、大審院は幸徳秋水はじめ運平ら24名に死刑を宣告します
(内12名は翌日無期懲役に減刑)。この事件は計画自体捏造された疑いも強く、まして運平が関与したとは到底考えられなかったのですが、
社会主義者の一掃を図った桂内閣は助命運動の盛り上がりを危惧するかのように、判決からわずか6日後の24日に秋水、運平ら11名を、
25日に残る管野スガを処刑しました。運平、享年30歳でした。

④ 画僧「雪舟」: 1420-1506 室町時代の画僧。わが国 水墨画 の完成者。 → Click 雪舟終焉之地/雪舟之墓(2010/05/20)
備中(びっちゅう)(岡山県)小田氏の出である。 諱等陽(いみなとうよう)、 字(あざな)雪舟。京に出て 相国寺春林周藤(しょうこうじしゅんりんしゅうとう)の弟子となる。ここで禅を学ぶと同時に、当時相国寺にいた 周文(しゅうぶん)について絵を学ぶ。のちに 大内氏 の 庇護(ひご)をうけ、応仁元年(1467)には遣明船で中国に渡る。長有声に色彩の法、李在に墨の使い方を学び文明元年(1469)に帰国。文明8年には豊後の地にアトリエ 天開図画楼 を開く。以後各地を歴遊し文明18年山口に帰り、 周防(すおう)の天開図画楼を築く。代表作「四季山水図」「天橋立図」「益田兼尭像」「恵可断臂図」等。
死亡年月日は、永正3年(1506)8月8日、87歳が定説でありますが、本朝画史は文亀2年(1502)83歳となっています。

死亡地は、周防(山口市)の雲谷庵、石見(島根県益田市)の大喜庵(東光寺)、備中(岡山県井原市)の大月山重源寺の三か所があって、定説はありません。


⑤ 工ケ城跡: (たくみがじょうあと)陶山氏ゆかりの城、軍勢が野営した戦国期陣城部分が良い状況で残されている遺構。
  下稲木町の谷あいを西に走ると正面にこんもりと高い山が見えてくる。標高120m、比高70mの山に匠ケ城がある。この山城の特徴は山頂に百数十メートルの塹壕 が残っていること。「井原市史」の記述によると、「城主に関する情報は少ない。近世地誌によると『太平記』のなかで兄陶山藤三義高とともに後醍醐天皇の籠もる笠 置山への夜討ちを敢行した陶山八郎吉次の名が城主として伝えられている。(中略)この城の遺構は戦国期にも手が加えられたことを物語っている。また、かなりの 数の軍勢が野営する広大な陣城が構築されている。この城の位置からして、おそらくは笠岡に上陸し、井原へと向かう軍勢の格好の野営地となったのではなかろう か。
 ☆2009/01/19 匠ケ城へ上る → ClickHere
   池の三叉路で車を止めて、城跡の東側の谷間につづく道を歩き、頂上をきわめた。
 寒風の吹く寒い時期で、下に引用した備後古城調査会の面々が調査のために巻き尺をもって踏破された31年前の時期とほぼ同じことに気がついた。
 頂上にあった史跡説明文はつぎのとおり。
 「井原市指定史跡 工(匠)ケ城跡
  この城は鎌倉時代末期に笠置山合戦に足利尊氏勢として参加し、活躍した陶山吉次の居城として伝えられています。
  標高約130m、本丸はさらに西方向にのびる二段の郭で構成されており、二番目の郭の東端には、土塁の跡も残っています。
  また、本丸の東方向と南方向には腰郭が張り出し、南方向の腰郭は四段で構成されています。
  戦国時代の典型的な山城で、本丸からは稲倉地区が一望でき、現在も当時の状況をよく留めています。
  指定年月日 昭和50年9月16日 井原市教育委員会
  



☆所在地 
  井原市高屋町石谷史跡「 匠ケ城」跡

 当日は北西の風が吹きすさぶ冬の日でした
 Photo Click → こちらです
☆高屋城主 藤井皓玄 城将新ノ介廣好
昭和53年1月29日、備後古城調査会が調査藤井高一郎氏記
『五条の空堀を横切り、各曲輪址を通って甲ノ丸址へ登った。高屋城址の遺構は平削地が八段あって面積3,600m3ある。
そして形態は連郭式と呼ばれる形をしている。大手口はいろは道で山麓の惣門址まで続いている。井戸址は甲ノ丸跡と北方中腹の井戸郭跡と二カ所残っている。
防御構築は土塁が六ノ段残っているが、石累は見つからなかった。北方山腹は十六条の堅堀りが武者走りから堀り下げられている。追憶の昔日、甲ノ丸段にあったであろう勢棲(せいせい)に登れば遙か南西に神辺道の上城が望めたはず、永禄十二年(1569)藤井氏没落の歴史は青史に残る。』
立石定夫氏著「神辺城と藤井皓玄」
☆2009/03/29
⇒ ClickHere



☆井原市関係参考サイト一覧

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001   井原市ホームページ by 市役所の公式ホームページ   市の人口46,124人(h20/8月)、土地面積は243.36Km2
002   古代まほろば館 by 井原市文化財センター   井原の歴史学習にはここ!
003  郷社足次山神社(井原・倉掛)  by 倉掛自治会ホームページ  日芳橋(井原大橋)を東に渡ってすぐらしい。09/01/26
004  井原の熱い季節 by 「備中国白虎伝」 どの
井原史跡情報が満載です 
005   井原情報局 by 「井原の熱い季節」管理人どの紹介 井原市に限定した地域情報とふれあいの広場
006  井原市HP イベント情報 高越山城 井原・笠岡歴史研修reports



2008/09/17 井原市見学(笠岡市生涯教育ツアー)

井原の社寺: 最古の寺院は西江原町寺戸(てらど)にある「寺戸廃寺」

 
同地には現在曹洞宗後月寺(ごげつじ)があるが、同寺の境内や周辺から廃寺の礎石・瓦・土器などが出土し、軒瓦の文様から奈良明日香村の
川原寺の流れを組むことからこの廃寺の建立時期が七世紀後半の造営とみられている。 寺戸廃寺趾 ⇒ ClickHere
この時期、天武・持統朝の時期には全国的に在地の首長たちが競って寺を建てたようである。「扶桑略記」には持統六年(692)に寺院の数は全国で
545寺あったとの記録が残る。約百年前の推古朝には寺の数が46寺(僧816人、尼569人)とあり急激に増加したことがわかる(「日本書紀」推古
32年(624))。

 寺戸廃寺につづき平安時代(天平年間)には七堂伽藍をと僧坊を備えた寺院が相継いで建立される。北山町の北山寺(正覚院)、野上町の頂見寺
(千手院)、門田町の金剛福寺、高屋町の高山寺、笹賀町の金鋪寺、などでありいずれの寺も聖武天皇治下、行基による創建だとされる。



井原の街道: 「古代山陽道」
 → ☆2009/03/17 街道を歩く Click= 「日吉橋」、「七日市村社・武速神社」、「でんぐら堂」、「大曲

 詳細ルートは不明であるが地形的には小田川沿いの道でその一部が現在の国道に引き継がれていると思われる。
備前にはこの遺構が発掘され、幅員は8世紀には9~10メートルもあり、路盤工事も丁寧で円礫や瓦片を敷き固めたりされている。
後には幅員は6メートルと狭くなった。また、飛駅便として30里(16Km)ごとに駅が置かれ、馬が待機した。大同二年(802)の官符では備中国の駅
は五駅であるが、「延喜式」では津坂・河辺・小田・後月の4駅となっている。小田駅に比定されている場所は矢掛町大字浅海の「毎戸遺跡」が有力。
後月郡ではそこから16里を測り、その地点を探すと唯一白鳳時代の遺構が残る「寺戸廃寺」辺りであろうと推定される。おそらく国衙もこの周辺に
あったと思われる。その後の奈良時代後半には山陽道の人・物の輸送は海路が奨励された記録が残る。
☆2009/09/16 「山陽道 今と昔」 by 井原まほろば館主任学芸員 高田知樹氏 Click = ⇒ 「井原を通る山陽道

関連サイト








 






 






【平櫛田中】
  木彫界の巨匠として知られる平櫛田中(本名 田中倬太郎(タクタロウ))は、一八七二(明治五)年井原市西江原町で生まれた。二十一歳の時彫刻家を志し、以後数々の名作を生み出した。代表作には二メートルを越す大作である「鏡獅子」や「五浦釣人」、「尋牛」などがある。



【古代の井原】 by「井原市史」

後月郡管内の郷(里)は、「和名抄」には荏原郷(えばら)・県主郷(あがた)・出部郷(いずえ)・足次郷(あすわ)・駅家郷(うまや)の五つがあがっている。なお、平城京出土の木簡には「後月郡後月郷」とあるものがあり、この後月郷は「和名抄」の駅家郷に当たるとみられるから、後月郷に駅家が置かれたので郷名をもっぱら駅家郷と称するようになったのであろう。
荏原郷は神代(こうじろ)町・東江原町・西江原町付近に比定される。中世を通してこの郷名は残り、荏原を江原と書くのは江戸時代に入ってからである。荏原の「荏(えごま)」は油を取るエゴマの栽培地であるという説があるが、「延喜式」を見ると備中は古代において荏の産地として記述されているのは美濃と加賀である。
県主郷は「阿加多」と読まれ、木之子町・西方町・門田町に比定される。県主郷は中世において県主保となり、皇室領・門跡寺院領などとして多くの文書にみられる。
出部郷は上出部町・下出部町に比定される。
出部郷は小田郡にもあり、市域では現在の大江・岩倉・上稲木・下稲木町付近とみられる。
足次郷は「安須波(あすは)」と読み、隣の後月郡芳井と市内の一部。市内倉掛(くらかけ)にある足次山(あすわやま)神社は後月郡内の唯一の式内社で、もと芳井町川相に鎮座していたものが、同町天神山に移座され、応永の頃(1394-1428)現在地へ遷したものといわれる。祭神アスハ神は小田川の水源を守る農業神で郷名もそれに因むものと考える。
さて、郷の実態であるが、当時50戸をもって編成した行政上の単位なので現状の自然村落とは関係なく作られたものである。後月郡は五郷であるから、一郷が法定どおり50戸で編成されていたとすれば、後月郡に本籍をもっていたものは250戸となる。奈良の正倉院に残る文書から奈良時代の他県での郷戸籍をみると、平均戸の成員数は23.9~20.7人程度である。
岡山県下の例は時代が若干下るが備前国磐梨郡(いわなし)と赤坂郡で元慶4年(880)と翌年の人口データが残っている(「類聚三代格」)。磐梨郡は6郷で戸数297とあり、一郷が49.5戸。赤坂も6郷で平均48.8戸、ほぼ50戸となっている。
奈良時代の後月郡の住人は5郷X50戸X20人=5千人程度とおもわれる。

【井原の荘園】 (注)一橋領代官による「後月郡村様子書」文政13年(1830)による。

1-荏原荘 小田川左岸の上記荏原郷を中心とした地域。西江原・寺戸村・東江原・神代・山野上・名越・花滝・青野・北山村
2-井原荘 小田川上流の現在の芳井町一帯。梶江・簗瀬・与井・吉井・天神山・下鴫・山村・池谷村、現在の井原市中心は足次郷。
        「重玄寺文書」の山の境の文書に「井原庄」が初めて見える。(応永34年(1427)8月25日)
3-その他 足次郷、出部之郷、県郷、河合荘、三原荘


2009/05/24(日曜日) 文化財めぐり(井原の町並み探訪)参加

井原文化財センター講座(2009年5月): 池田家(徳川幕府旗本)の陣屋があった「井原旧市街地」 講師は高田主任学芸員さん

 
井原の町は江戸時代寛永19年(1642)より幕府旗本池田家の知行所(千石のうち井原分は608石)となり明治維新を迎えた。
この間、旗本池田家は江戸に在住し井原には池田家の陣屋が置かれた。陣屋には地方役人(陣屋役人)として長野氏柳本氏猪原氏・大津寄
(おおつき)氏が勤めた。いずれも地方の中心的人物を輩出し、井原の教育と産業振興に力を注いだ。
この日は小田川堤に沿って伸びる町並みを南の入り口「足次山神社」より歩き始め、下町~中町~上町(かんまち)~新町を抜けて「常念寺」
を折り返し、池田家陣屋跡・井原キリスト教教会を見学し「古代まほろば館」へ歩いた。全行程は4Km、閑散化した旧繁華街という印象だった。
スナップ写真 → ClickHere(足次山神社に奉納された『算学』by佐藤善一郎)

No. 表題 Title   内容 Contents
001 井原市立「古代まほろば館」:出土した銅鐸の模造品の展示があります。  画像みる    ↓
     
 
 【明見銅鐸出土遺跡】 〒715-0017 岡山県井原市下稲木町

 平成4年11月21日、農地を耕作中にこの場所より銅鐸が出土し、現地で確認したところ埋納施設が残っていた。銅鐸は、地山を掘りこんだ長さ55cm、幅3 0cm、深さ35cmの土壌のなかに、鈕を丘陵頂上に向け、鱸を上下にして埋められていた。今回出土したのは、「扁平鈕式六区袈裟襷文銅鐸」で、銅鐸の内 外より朱が検出され、銅鐸の当時の姿を考える上での貴重な資料となった。この遺跡は現在埋めもどされ保存されており、銅鐸の埋蔵壙が当時と同じ状態  で保存されている例は全国的にみてもわずかで、貴重な遺跡といえる。

 ☆銅鐸メモ 2010/01/25 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参考

  銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器で、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器or楽器である。3世紀になると突然造られなくなる。これまでの全国出土数は約500個で、兵庫(56)、島根(54)、徳島(42)、滋賀(41)、和歌山(41)などとなっている。(平成13年3月末 文化庁調べ) 岡山県下では約20箇所か?
 大きさは12センチから1メートルを越すものまであり、1世紀頃には高さが60センチに達し、さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超える。しかし、その直後鋳造が止んでいる。現存する最大は、144センチ、45キログラムに達する(滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸)。
 中国の銅鈴が起源とされるが、日本で出土する形状に類似するものは見つかっていない。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土する。それらの影響は考えられるが、その後日本の銅鐸は日本で独自に発達した。
   ***    ***    ***   ***
 世界の歴史時代区分は石器・青銅器・鉄器と3区分される。これに対して、日本には青銅器と鉄器がほぼおなじ弥生時代に伝播したので青銅器時代はないと云われている。中国の青銅器時代区分は1.殷金文(B.C.1300頃~B.C.1070頃)、2.西周金文(B.C.1070頃~B.C.771年)、3.東周(または列国)金文(B.C.770年~B.C.222年)、4.秦漢金文(B.C.221年~A.D.219年)に分類される場合が多い。
銅鐸の源流となる「銅鈴」的な楽器を上海博物館で見た。時代は紀元前9世紀中葉 ⇒ ClickHere
002  「興譲館」の前身となる阪谷朗廬設立の「桜渓塾」跡(現在は「桜渓塾趾公園」)  画像みる    ↓

「朗廬阪谷先生垂帷跡碑」

 阪谷 朗廬(さかたに ろうろ)文政5年~明治14年(1822~1881) ⇒  興譲館 ClickHere

   幕末の漢学者・教育者。備中・川上郡九名村(現小田郡美星町)の造り酒屋に生まれた。通称は希八朗、名は素(しろし)、
  号は朗廬。文政12年(1829)7歳で大塩平八郎(大塩中斎)の洗心洞に入門、ついで天保3年(1832)10歳で江戸において同
  郷の昌谷精溪(さかや・せいけい)に師事した。
  26歳のとき、母の病で帰郷、嘉永4年(1851)後月郡簗瀬村桜谷(現後月郡芳井町)に桜渓塾を開いた。その後、寺戸村(現井
  原市西江原町)に創設された興譲館に招かれた。嘉永6年(1853)10月、31歳で郷校興譲舘の開校、初代館長となった。
  慶応2年(1866)6月44歳の時、徳川慶喜に謁見、経書を講義。明治元年(1868)11月47歳、広島浅野侯に聘せられ、興譲館
  を甥の坂田警軒に譲り、広島藩の藩儒の賓師となる。
  その後明治5年(1872)4月50歳、陸軍省に務めた後、文部、司法などの要職を歴任し、明治11年(1878)57歳で退官後、東京
  学士会議員に選ばれた。明治14年(1881)1月15日病没。享年60歳。大蔵省に入省し後に大蔵大臣、東京市長、貴族院議員
  等を歴任した阪谷芳郎(よしお)はその四男。
  著書には『朗廬文鈔』、『左説私鈔』、『田舎話』、『評註東莱博識』、『日本地理書』、『朗廬全集』などがある。

  開国論を主張し、議会主義、海軍充実を説く開明派であり、福沢諭吉らの明六社に加わった。また、世界共通語の必要も唱え
  ていた。 現在でも井原市民が誇りとし、最も敬愛するの偉人の一人といえる。
 
 「芳井村桜谷の桜渓塾跡」
  大正2年11月19日、岡山県後月郡芳井村桜谷の桜渓塾跡に朗廬阪谷先生垂帷跡碑の建碑除幕式が行われた。
  この除幕式の日を記念して、以後毎年、桜渓塾跡に参拝 する行事が桜渓参拝である。
 以下、現地案内文より
 『桜渓塾
 嘉永四年(1851)阪谷朗廬が伯父山成大年、山成直蔵の協力によって簗瀬の桜に漢学塾(桜渓塾)を開き、青少年の人材育成のため
 大いに尽くしました。(中略)大正二年(1913)桜渓遺跡保存会によって記念碑建立、草廬補修、園庭植樹が行われ、以後桜渓塾跡は興譲館
 館祖の子弟教導の地として保存されています。 by 芳井町教育委員会』

003
 刀匠国重 画像みる    ↓

全画像と略歴

 旧刀匠女 荏原国重こと 大月源(1733-1808):

  井原市生まれ。十六才で父親と死別、叔父に引き取られ病弱な夫にかわって刀工となり国重を継ぐ。写真は狩野信喬画、個人蔵。
 北條早雲一族の高越城主に代々仕え、明治9年(1876)の廃刀令が出るまで四代にわたり続いた。
 彼女の作品は主に短刀・脇差しが多く女性固有の柔和な優しさが漂っているという。
 「刀工女国重宅跡」なる記念碑が昭和十七年に後月郡教育委員会により東江原東平井公民館前に建つ。

 ☆2009/03/17 『刀工女國重宅阯』 東江原の碑の探訪と大月家訪問記 → ClickHere
  大月源画像(市指定) ⇒ そのコピー  ClickHere
 この画像は、日本で唯一の女性刀工大月源を描いたものである。時代は、江戸時代後期で、縦85.6cm、横36.7cm。ここの画像は、お源の息子13代国重伴七 が家系途絶の危機を防いだ功績に感謝し、また、母の形見に残そうと思い、信喬という絵師に描かせたものである。この画像は、女人禁制といわれた刀工の 世界を、家系存続のためその禁を破って刀工となったわが国唯一の女性刀工お源の風貌を伝える貴重な資料である。なお、同家には、「国重由緒写」、「鍛  冶心得大意」も伝えられており、江戸時代の刀工荏原国重派を知る上で貴重な資料である。(by「古代まほろば館」)

☆2009/03/以降の井原遊歩LOG
****  井原探索の Index-List です  ******

平成の大合併により井原市域が広くなった。芳井町と美星町にはそれぞれ「旧」なる文字が冠されて、「旧芳井町憲章」碑もあった。 

No 表題 事 跡 備考
01 正霊山城阯 戦国時代の芳井の武将藤井皓玄の居城阯。井原市役所芳井分室の建屋の横に「城ケ端通り」
なる碑があって「正霊山城阯」の説明板が建っていた。(所在地:井原市芳井町吉井)
2009/03/17
山城跡
02 足次山神社 備中国式内社、旧郷社。足次山とは天神山の高峰の古名、阿須波神の社の倉掛鎮座は4度目の変遷 2009/03/17
03 武速神社 日芳橋を西に向かって渡り、井原七日市町にある村社 同上
04 日芳橋 旧山陽道の「芳井川」(現小田川)に架かる橋。現在の橋は大正15年3月に竣工された。 同上
05 刀工国重 「刀工女國重宅阯」の碑が建つ「高越山」の裾野を訪れた。 同上
06 嫁不要観音 嫁いらず観音院、平安時代初期に行基が木彫り自作の十一面観音像を祀り開基したと伝わる。春の大祭 2009/03/20
07 高越山城阯 北条早雲誕生の城と云われる高越山城。頂上付近まで車で乗り入れできるように誘導案内版完備。 2009/03/13
08 新九郎薬師 若き早雲時代、伊勢新九郎を名乗っていた三十代後半に薬師如来像を祀りこの薬師堂を創設したという。 同上
09 匠ケ城阯 陶山一族の北限の砦、城主は陶山藤三義高の弟、吉次。南北朝時代の陶山一族隆盛期の出城跡 2009/01/19
10 高屋城阯 戦国の世に神辺城攻防戦をしかけた芳井在住の武将、藤井皓玄の居城 2009/03/29
11 藤井皓玄伝 「神辺城と藤井皓玄」1990/08/01 立石定夫氏著より引用。 2009/03/30
12 皓玄終焉地 諸説あるなかで、神辺城落城より浅口郡西大島石砂の池の堤の自刃説。阪谷郎廬の子息の碑文あり。 2009/03/31
13 消渇神社 藤井皓玄の娘、一豊姫を祀った神社。消渇とは糖尿病のことで、下半身の患いに霊験あらたかと伝う。 2009/05/05
14 旧市街地 井原市文化財センター主催の歴史講座、高田主任学芸員さんの説明で上町・中町・下町・新町を歩く。 2009/05/24
15 那須与一墓 日本では知らぬ者がいない程、高名な射手だった那須与一。室町期の陶山一族の弓術にも定評があった。 2009/05/28
-2 那須一族墓 市内青野町と西江原町にある五輪の集積墳暮。青野町の寶篋院塔は天文十五年(1546)十一月六日の銘 2011/02/24
16 永祥寺 禅洞山永祥寺は那須一族の菩提寺で与一の子孫資道、資英親子が峨山門下の実峰良秀を招き開山した。 2009/05/28
17 旧道の大曲 旧山陽道を西行すると、日芳橋をわたり七日市を過ぎて出部あたりで「大曲」という名所があったそうだ。 2009/05/28
18 縣主神社 鴨分別命と歴代の縣主を祭神として祀ったと伝えられる神社。稲木川に面し蛟龍(みずち)退治の説話あり 2009/07/06
19 井笠鉄道史 井笠鉄道唱歌 by 井上奈緒氏「史談いばら」#28、近代ニッポンの始動とともに軽便鉄道が開業した 2009/07/06
20 古代山陽道 奈良・京都に都があった時代には都と九州とを結ぶ山陽道がニッポンの最重要往還(大路)だった。 2009/09/17
21 滝山城跡 毛利の家臣宍戸孫六家安が入城。その16年後の永禄11年(1568)7/3 朝靄をついて藤井皓玄が攻めた。 2009/10/31
22 高山寺 経ケ丸の中腹にあり山号を大乗山という。天平3年、行基の開基。当初は天台宗なるも現在は真言宗。 2009/09/17
23 重玄寺 山号を大月山という。開山は嘉吉元年(1441)足利直冬の子冬氏、その子義尊・義将兄弟の関わり寺也。 2009/10/31
24 〃奥之院 現在の重玄寺から天神山に入り車で走ること約10分、往時の伽藍は偲ぶべくもないが緑の空地は聖域 2010/05/20
25 有井城居館 藤井一族の居城、皓玄の父好重の完成と伝えられる。皓玄が神辺城を追われた後、一族は此地で全滅 2010/05/20
26 亀迫城趾 毛利元清家臣宍戸安芸守の守備した砦跡と伝う。毛利備中進攻の拠点として関ヶ原合戦の頃、廃城。 2010/05/22
27 高列供養塔 藤井皓玄の伯父、河合豊前守高列(重行)は永禄2年(1559)は神辺城攻略を企てるも露見して討死す。 2010/05/20
28 興譲館 嘉永6年(1853)一橋藩と有志村民たちによって庶民を対象とした郷校で漢学を教えた。現興譲館高校 2010/08/21
29 木之子2城 才崎城と三輪山城は稲木川を隔てて東西に2Kmの距離にある。前者は渡部氏、後者馬越氏の居城。 2010/08/24
中山城跡 芳井町川相の中山城を訪ねた。井原市内から小田川を遡り、天神峡の更に上流、鴫川との合流地の城 2010/08/24
30 五角地神碑 三輪崎城の登城口脇に五角柱地神碑が建っていた。県道290号上稲木東江原線沿い、廻りは水田地帯 2010/08/24
31 善福寺 寺伝によると応永三年(1396)足利義満の開基、足利尊氏が九州に下る際母親を預けた屋敷跡に因む。 2010/05/22
32 高瀬舟着場 小田川の北岸、今市に残る石積みの係船場。江戸時代初期の史蹟で国道313号沿い。見逃し注意! 2010/09/18
33 西江原地神 井原市域で2番目と3番目の五角型地神碑を訪ねた。うち一基は散策の途中に偶然発見、場所は甲山 2011/01/22
34 稲木・岩倉 五角柱地神碑探訪。この情報は大門町在住のFさんからネットを通じてお教えいただく。石燈籠併設? 2011/01/27
35 出部・笹賀 前項につづいて五角柱地神碑探訪。七日市の武速神社を皮切りに出部・笹賀を廻って四箇所五基を見た。 2011/02/03
36 市域四社 五角地神碑情報、西江原在住Sさん五社訪問記。武速宮以外四社を掲示(郷社・井森・皇太子・諏訪社) 2011/02/08
37 市域第3弾 五角柱地神碑を訪ねる散策、井原在住Sさんに同行記。(1)梵字のある地神碑(2)野上町~上出部町 2011/02/24
38 戸木荒神山 平安末期には長田庄司忠致が在城、戦国時代弘治年間は伊達大蔵が在城し高越城主伊勢氏と交戦す 2011/03/19
39 寺戸廃寺趾 白鳳時代の井原最古の寺院跡。興譲館の正門前付近、現在は敷地内に後月寺(ごげつじ)がある。 2011/03/24
40 平安伽藍 天平年間(729-749)創建寺院群。金鋪寺(笹賀)金剛福寺(門田)、頂見寺(野上)、北山寺(北山) 2011/03/12
41 伝為朝之墓 門田町の丘陵の見晴らしのいい北面に土塀に囲まれた一郭にあった。隣には十基の五輪塔が林立す 2011/03/24
42 法泉寺 曹洞宗寺院、伊勢氏菩提寺。早雲父子の供養塔をはじめ早雲武者絵、袈裟刷り版木、自書禁制状など 2011/03/30
43   関衆利墓所  元禄七年、五代津山藩主世襲の為上京途中桑名宿にて発狂、森家は断絶となり衆利は永祥寺に幽閉  2011/05/27
 44  才崎城  この城趾を訪問したのは1年前の夏、暦は巡ってちょうど一年経過、この度やっとUpした。渡辺大隅の城  2011/08/01
 45 山成大年   芳井の妙善寺を訪問。山成家の屋敷跡ならびに墓所と阪谷朗廬の室恭(京子)米寿碑を見た。  2012/02/17
 46  石川順介邸 文化9年(1812) 当時6歳関藤元五郎(後の藤陰)は笠岡吉浜村から西方村医師の石川家に養子に入る  2012/02/17
47  朗廬の生家  備中国川上群九名村(美星町)造酒屋の三男として生まれる。幼名素三郎、のち希八郎、素、朗廬と号す  2012/02/17 
48  中村耕雲邸  高屋川を遡り丹生の里には本草學の大家中村耕雲の顕彰碑あり。碑は屋敷内に現存するも家屋は崩落  2012/05/01 
 49 後鳥羽院陵  門田町の紫雲山金剛福寺に在る伝後鳥羽院御陵と従者一同の五輪塔群。寺伝によると二度行幸ありと。  2012/05/01 
 50 堅牢地神碑  井原市内西荏原町青木の荒神社境内にある五角柱地神碑には「南無堅牢地神」、他四面は梵字のみ  2012/05/01
51 堅牢地神碑  高越山城の東方に鎮座する「金切神社」境内に仏式地神碑と呼ぶべき「南無堅牢地神」碑があった。  2012/06/01 
52  五神名地神  高越山城への登山道、西江原町東谷にあり。すぐ傍には水場(溜池)と往来交叉(公開堂)と夜燈あり。  2012/06/01 
53  八角柱地神  極めて珍しい八角柱六神名地神婢。井原市美星町黒忠宮ノ峠にある宇佐八幡神社本殿南の境内に鎮座  2013/02/09 
54   頂見寺 創建は天平九年(737)、七十二の僧坊をもつ山岳寺院。建長三年(1251)に那須資泰が伽藍を再建古刹 2013/11/23 
55  小見山城  別名高屋山城ともいうらしい。元弘の乱で軍功あった小見山次郎行忠城主、以後は毛利の守城となった  2015/08/13 
56 高屋藩境碑 明治2~4年頃、天領高屋村と福山藩御領村の間の境を示す石柱が毀された事件が生じた。その真相とは? 2016/05/07
57  高瀬舟桟橋   今市の小田川畔に遺る高瀬舟の船着場、市の史跡に指定されている。川は水運を育み町を活性化させた 2016/06/20 
58  観音堂行倒  天保六年正月廿二日、神辺御領村から駕籠に乗り四国巡拝から岡山へ帰国の途上、出部で病死36-7女  2016/07/04 
 59 高屋町地神 市内高屋町を東西に貫く国道313号を隔てて南と北側に一基ずつ。北の碑は曲損だが文政年間に建立  2017/08/31 
 60 高屋宿助郷 元禄十三年に福山藩水野家取り潰し後、高屋村は天領となり宿駅設営に難渋を招く。その古記録の縦覧  2017/09/08


☆2010/03/20 <~閲覧休止中~>
  講座 井原市立図書館友の会 第81回「鞆の浦と保命酒屋」 受講しました。      ⇒ ClickHere
  講座 井原市立図書館友の会 第82回「古文書にみる江戸時代の井原市中の様子」 ⇒ ClickHere
  講座 井原市立図書館友の会 第83回「農学書・河合忠蔵箸『穂に穂』を読む」     ⇒ ClickHere
  講座 井原市立図書館友の会 第84回「西江原の文芸の歴史」               ⇒ ClickHere

2017/09/08更新 09/01/19



 









































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