No |
表題 |
事 跡 |
備考 |
01 |
正霊山城阯 |
戦国時代の芳井の武将藤井皓玄の居城阯。井原市役所芳井分室の建屋の横に「城ケ端通り」
なる碑があって「正霊山城阯」の説明板が建っていた。(所在地:井原市芳井町吉井) |
2009/03/17
山城跡 |
02 |
足次山神社 |
備中国式内社、旧郷社。足次山とは天神山の高峰の古名、阿須波神の社の倉掛鎮座は4度目の変遷 |
2009/03/17 |
03 |
武速神社 |
日芳橋を西に向かって渡り、井原七日市町にある村社 |
同上 |
04 |
日芳橋 |
旧山陽道の「芳井川」(現小田川)に架かる橋。現在の橋は大正15年3月に竣工された。 |
同上 |
05 |
刀工国重 |
「刀工女國重宅阯」の碑が建つ「高越山」の裾野を訪れた。 |
同上 |
06 |
嫁不要観音 |
嫁いらず観音院、平安時代初期に行基が木彫り自作の十一面観音像を祀り開基したと伝わる。春の大祭 |
2009/03/20 |
07 |
高越山城阯 |
北条早雲誕生の城と云われる高越山城。頂上付近まで車で乗り入れできるように誘導案内版完備。 |
2009/03/13 |
08 |
新九郎薬師 |
若き早雲時代、伊勢新九郎を名乗っていた三十代後半に薬師如来像を祀りこの薬師堂を創設したという。 |
同上 |
09 |
匠ケ城阯 |
陶山一族の北限の砦、城主は陶山藤三義高の弟、吉次。南北朝時代の陶山一族隆盛期の出城跡 |
2009/01/19 |
10 |
高屋城阯 |
戦国の世に神辺城攻防戦をしかけた芳井在住の武将、藤井皓玄の居城 |
2009/03/29 |
11 |
藤井皓玄伝 |
「神辺城と藤井皓玄」1990/08/01 立石定夫氏著より引用。 |
2009/03/30 |
12 |
皓玄終焉地 |
諸説あるなかで、神辺城落城より浅口郡西大島石砂の池の堤の自刃説。阪谷郎廬の子息の碑文あり。 |
2009/03/31 |
13 |
消渇神社 |
藤井皓玄の娘、一豊姫を祀った神社。消渇とは糖尿病のことで、下半身の患いに霊験あらたかと伝う。 |
2009/05/05 |
14 |
旧市街地 |
井原市文化財センター主催の歴史講座、高田主任学芸員さんの説明で上町・中町・下町・新町を歩く。 |
2009/05/24 |
15 |
那須与一墓 |
日本では知らぬ者がいない程、高名な射手だった那須与一。室町期の陶山一族の弓術にも定評があった。 |
2009/05/28 |
-2 |
那須一族墓 |
市内青野町と西江原町にある五輪の集積墳暮。青野町の寶篋院塔は天文十五年(1546)十一月六日の銘 |
2011/02/24 |
16 |
永祥寺 |
禅洞山永祥寺は那須一族の菩提寺で与一の子孫資道、資英親子が峨山門下の実峰良秀を招き開山した。 |
2009/05/28 |
17 |
旧道の大曲 |
旧山陽道を西行すると、日芳橋をわたり七日市を過ぎて出部あたりで「大曲」という名所があったそうだ。 |
2009/05/28 |
18 |
縣主神社 |
鴨分別命と歴代の縣主を祭神として祀ったと伝えられる神社。稲木川に面し蛟龍(みずち)退治の説話あり |
2009/07/06 |
19 |
井笠鉄道史 |
井笠鉄道唱歌 by 井上奈緒氏「史談いばら」#28、近代ニッポンの始動とともに軽便鉄道が開業した |
2009/07/06 |
20 |
古代山陽道 |
奈良・京都に都があった時代には都と九州とを結ぶ山陽道がニッポンの最重要往還(大路)だった。 |
2009/09/17 |
21 |
滝山城跡 |
毛利の家臣宍戸孫六家安が入城。その16年後の永禄11年(1568)7/3 朝靄をついて藤井皓玄が攻めた。 |
2009/10/31 |
22 |
高山寺 |
経ケ丸の中腹にあり山号を大乗山という。天平3年、行基の開基。当初は天台宗なるも現在は真言宗。 |
2009/09/17 |
23 |
重玄寺 |
山号を大月山という。開山は嘉吉元年(1441)足利直冬の子冬氏、その子義尊・義将兄弟の関わり寺也。 |
2009/10/31 |
24 |
〃奥之院 |
現在の重玄寺から天神山に入り車で走ること約10分、往時の伽藍は偲ぶべくもないが緑の空地は聖域 |
2010/05/20 |
25 |
有井城居館 |
藤井一族の居城、皓玄の父好重の完成と伝えられる。皓玄が神辺城を追われた後、一族は此地で全滅 |
2010/05/20 |
26 |
亀迫城趾 |
毛利元清家臣宍戸安芸守の守備した砦跡と伝う。毛利備中進攻の拠点として関ヶ原合戦の頃、廃城。 |
2010/05/22 |
27 |
高列供養塔 |
藤井皓玄の伯父、河合豊前守高列(重行)は永禄2年(1559)は神辺城攻略を企てるも露見して討死す。 |
2010/05/20 |
28 |
興譲館 |
嘉永6年(1853)一橋藩と有志村民たちによって庶民を対象とした郷校で漢学を教えた。現興譲館高校 |
2010/08/21 |
29 |
木之子2城 |
才崎城と三輪山城は稲木川を隔てて東西に2Kmの距離にある。前者は渡部氏、後者馬越氏の居城。 |
2010/08/24 |
々 |
中山城跡 |
芳井町川相の中山城を訪ねた。井原市内から小田川を遡り、天神峡の更に上流、鴫川との合流地の城 |
2010/08/24 |
30 |
五角地神碑 |
三輪崎城の登城口脇に五角柱地神碑が建っていた。県道290号上稲木東江原線沿い、廻りは水田地帯 |
2010/08/24 |
31 |
善福寺 |
寺伝によると応永三年(1396)足利義満の開基、足利尊氏が九州に下る際母親を預けた屋敷跡に因む。 |
2010/05/22 |
32 |
高瀬舟着場 |
小田川の北岸、今市に残る石積みの係船場。江戸時代初期の史蹟で国道313号沿い。見逃し注意! |
2010/09/18 |
33 |
西江原地神 |
井原市域で2番目と3番目の五角型地神碑を訪ねた。うち一基は散策の途中に偶然発見、場所は甲山 |
2011/01/22 |
34 |
稲木・岩倉 |
五角柱地神碑探訪。この情報は大門町在住のFさんからネットを通じてお教えいただく。石燈籠併設? |
2011/01/27 |
35 |
出部・笹賀 |
前項につづいて五角柱地神碑探訪。七日市の武速神社を皮切りに出部・笹賀を廻って四箇所五基を見た。 |
2011/02/03 |
36 |
市域四社 |
五角地神碑情報、西江原在住Sさん五社訪問記。武速宮以外四社を掲示(郷社・井森・皇太子・諏訪社) |
2011/02/08 |
37 |
市域第3弾 |
五角柱地神碑を訪ねる散策、井原在住Sさんに同行記。(1)梵字のある地神碑(2)野上町~上出部町 |
2011/02/24 |
38 |
戸木荒神山 |
平安末期には長田庄司忠致が在城、戦国時代弘治年間は伊達大蔵が在城し高越城主伊勢氏と交戦す |
2011/03/19 |
39 |
寺戸廃寺趾 |
白鳳時代の井原最古の寺院跡。興譲館の正門前付近、現在は敷地内に後月寺(ごげつじ)がある。 |
2011/03/24 |
40 |
平安伽藍 |
天平年間(729-749)創建寺院群。金鋪寺(笹賀)、金剛福寺(門田)、頂見寺(野上)、北山寺(北山) |
2011/03/12 |
41 |
伝為朝之墓 |
門田町の丘陵の見晴らしのいい北面に土塀に囲まれた一郭にあった。隣には十基の五輪塔が林立す |
2011/03/24 |
42 |
法泉寺 |
曹洞宗寺院、伊勢氏菩提寺。早雲父子の供養塔をはじめ早雲武者絵、袈裟刷り版木、自書禁制状など |
2011/03/30 |
43 |
関衆利墓所 |
元禄七年、五代津山藩主世襲の為上京途中桑名宿にて発狂、森家は断絶となり衆利は永祥寺に幽閉 |
2011/05/27 |
44 |
才崎城 |
この城趾を訪問したのは1年前の夏、暦は巡ってちょうど一年経過、この度やっとUpした。渡辺大隅の城 |
2011/08/01 |
45 |
山成大年 |
芳井の妙善寺を訪問。山成家の屋敷跡ならびに墓所と阪谷朗廬の室恭(京子)米寿碑を見た。 |
2012/02/17 |
46 |
石川順介邸 |
文化9年(1812) 当時6歳関藤元五郎(後の藤陰)は笠岡吉浜村から西方村医師の石川家に養子に入る |
2012/02/17 |
47 |
朗廬の生家 |
備中国川上群九名村(美星町)造酒屋の三男として生まれる。幼名素三郎、のち希八郎、素、朗廬と号す |
2012/02/17 |
48 |
中村耕雲邸 |
高屋川を遡り丹生の里には本草學の大家中村耕雲の顕彰碑あり。碑は屋敷内に現存するも家屋は崩落 |
2012/05/01 |
49 |
後鳥羽院陵 |
門田町の紫雲山金剛福寺に在る伝後鳥羽院御陵と従者一同の五輪塔群。寺伝によると二度行幸ありと。 |
2012/05/01 |
50 |
堅牢地神碑 |
井原市内西荏原町青木の荒神社境内にある五角柱地神碑には「南無堅牢地神」、他四面は梵字のみ |
2012/05/01 |
51 |
堅牢地神碑 |
高越山城の東方に鎮座する「金切神社」境内に仏式地神碑と呼ぶべき「南無堅牢地神」碑があった。 |
2012/06/01 |
52 |
五神名地神 |
高越山城への登山道、西江原町東谷にあり。すぐ傍には水場(溜池)と往来交叉(公開堂)と夜燈あり。 |
2012/06/01 |
53 |
八角柱地神 |
極めて珍しい八角柱六神名地神婢。井原市美星町黒忠宮ノ峠にある宇佐八幡神社本殿南の境内に鎮座 |
2013/02/09 |
54 |
頂見寺 |
創建は天平九年(737)、七十二の僧坊をもつ山岳寺院。建長三年(1251)に那須資泰が伽藍を再建古刹 |
2013/11/23 |
55 |
小見山城 |
別名高屋山城ともいうらしい。元弘の乱で軍功あった小見山次郎行忠城主、以後は毛利の守城となった |
2015/08/13 |
56 |
高屋藩境碑 |
明治2~4年頃、天領高屋村と福山藩御領村の間の境を示す石柱が毀された事件が生じた。その真相とは? |
2016/05/07 |
57 |
高瀬舟桟橋 |
今市の小田川畔に遺る高瀬舟の船着場、市の史跡に指定されている。川は水運を育み町を活性化させた |
2016/06/20 |
58 |
観音堂行倒 |
天保六年正月廿二日、神辺御領村から駕籠に乗り四国巡拝から岡山へ帰国の途上、出部で病死36-7女 |
2016/07/04 |
59 |
高屋町地神 |
市内高屋町を東西に貫く国道313号を隔てて南と北側に一基ずつ。北の碑は曲損だが文政年間に建立 |
2017/08/31 |
60 |
高屋宿助郷 |
元禄十三年に福山藩水野家取り潰し後、高屋村は天領となり宿駅設営に難渋を招く。その古記録の縦覧 |
2017/09/08 |