五箇手嶋の城「矢崎山城」
 城主は塩飽七島の領主豊後守光義分家の塩飽帯刀光政という。
訪問DATE: 2009 11 06 


(本丸跡からの眺望は写真の如く穴の海に浮かぶ坪生・春日・深津・蔵王の山脈がはっきりと見えたことだろう。)

「矢崎山城」(参考文献「穴の海探訪の記録」より)
 谷地池(たんじいけ)東方の北へ延びる丘陵に在った。
左の写真の山麓にみえる建屋は西国霊場十九番立江
寺の地蔵菩薩とお大師さんを祀ったお堂である。
このお堂から池の堤を下る斜面に「矢崎神社」の小祠があ
る(写真上)。神紋は○の中に三の文字。河野水軍や大山
祇神社と似通っておりルーツを伺わせる。
祭神や創建など詳細は不明。祠の庇の下に墨書があった。
「矢崎山城 讃州(香川県)塩飽七島の領主豊後守光義の
分家筋に当たる塩飽帯刀光政という人が在城していた。
光政は渡辺越中守の幕下に属していたが天文年中(1532
-1555)没落したとある(「西備名区」)。
現在は畑となり遺構はとどめていないが地形上から「五箇
手嶋の城」のひとつと考えられる。ここに矢崎大明神が祭
られている。
社殿再建 昭和五十五年八月十七日。
寄進芳名先祖順 一金五万円 山崎某氏を筆頭に15名。
先祖祭日 十月二十八日 平成三年デ三百八十三年十
七年先四百年」逆算すると慶長13年(1608)となる。
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「五箇手嶋」とは明応年間(1492頃)以降、渡辺越中守兼
が深津五ケ庄&坪生庄の地頭代官職の給付以降の*

2009/11/06 Created
 
 「矢崎山城」にかんする参考文献 → Hit 「穴の海探訪の記録」 by 鎌田一氏
 
 河野や三島の水軍と結んだ毛利に対し信長は淡路から塩飽の水軍を味方に瀬戸の制海権を狙ったという。塩飽水軍の遠祖は
遠く鎌倉時代讃岐香川郡司として香西家資が兵船即ち兵船(海賊)鎮圧を命じられて下ってきた。矢崎城主はその塩飽の流れを
汲む塩飽大力之助久遠長左衛門(古城記) (帯刀光政-福山志料)である。
 神辺攻撃軍の外郡担当になった小早川軍は神辺の城を目指してこの辺りの山蔭に隠れながら進撃したであろう。鞆帯陣中の
隆景にとっては幕山から坪生、神辺への最短距離であったろう。手城島の城主に茂野五郎入道信盛がおり一乗山城渡辺氏と
戦って討死、同左近盛久も伊予河野を頼って一時は鞆に来攻したが敗れてついに河野氏に従っている。後年倉田盛久も渡辺氏
と戦い梶島山の一族倉田国清と共に破れている。この時渡辺氏は毛利氏の援軍に助けられ、国情は天神山城即ち天当山の城
に這難を避けて神辺の山名氏政の仲介により和睦している(天文七年一五三八年以前)。この城は梶島山城、手城山城、宅部城
などと共に五箇の手島の城の一つといわれてきたが渡辺氏は明応年間(1492-1501)山名俊豊から深津郡五ケ庄及び坪生の
地頭代官職を与えられて支配していた所である。

塩飽本島は、香川県丸亀市に属し、大小28の島々からなる。古くから海運、廻船業で全国に知られ、また咸臨丸の50人中35名
の乗組員を輩出した島である。本島には、笠島の町並み・塩飽勤番所跡・年寄の墓などの文化遺産が数多く残存する。
 中世になると、荘園の年貢を運ぶために港が発達し、1180年頃になると、造船技術が発達し、大型船も造られるようになった。
その頃造船を代表する所として、塩飽本島と橋倉島(多賀氏)が有名であった。造船、海運、海賊の根拠地として、海で勢力を伸ば
した彼らは、交通の要所に海関を設けて、通過する船から関税を取り、その勢力の及ぶ海域を安全に航行させる、警護衆としての
役割を果たしていた。平安時代は、平家に味方し、西国へ落ち延びる平家は、ここ塩飽本島に立ち寄っている。
 

位置: 福山市引野町山之上やまのかみ

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 *文献から見られると云われている。
沼隈郡熊野山田村一乗山城主の渡辺一族を重用したのは
備後守護山名俊豊である。(以下「引野町史」より引用)
「手嶋五城」1-梶島山城 天文年間、倉田孫太郎以下50
  騎が籠もったが渡辺勢に攻め落とされる。「備後太平記」
 2-手城山城 城主滋野盛久、「西備名区」では倉田左近
 五郎盛久、大内義久・毛利の家臣軍が入城。天当山城
 3-宅部城 毛利戒没までは宅部長左衛門が在城。
 4-櫛山砦・高崎砦 この近隣で丘陵が瀬戸内海に突き
    出た場所を高崎と呼び、そのまま地名となっている。
    矢崎山から見て2国を挟んだ山手辺りか。
 5-当矢崎山城がその五城に入る。
「谷地池」の落成は水野藩承応二年(1653)による330a