室町時代の山城「塩出城」
 城主は伊勢の住人、四王天(しおで)伊勢守が城主として居城。
訪問DATE: 2010 05 18 


(写真左上の「はめこみ」眺望はこの位置から西方に見えるであろう2国道沿線風景。現状は民家の陰になっている。)

写真は「引野・長浜の歴史と文化財」掲載より借用

「塩出城」(参考文献「引野・長浜の歴史と文化財」より)
 『西備名区』には「引嶋塩出城」という名で掲載、『広島
郷土史談』には「引島塩出城の城主は伊勢の人、四王天
(しおで)伊勢守であった」と書かれています。
古地(こじ)の寺砂子にあった伊勢神社は、四王天伊勢守
が勧請したと伝えられています。 「伊勢丘団地」「伊勢丘
小学校」などの名前の由来はこの伊勢神社にあります。
伊勢から移り住んだと言われる竹之内の塩出氏は伊勢
本宮より分霊をうけて古地・寺砂子に祀ったといわれてい
ます。
 大正四年(1915)、引野のすべての神社が天神社に合祀
されましたが、それまでは塩出一族が氏子となり独り酒を
ふるまって祭りをしていました。寄せ宮の後、鳥居は北吉津
町福山八幡宮境内にある「聡敏神社」(そうびんじんじゃ)に
売却され、社殿も社地もなくなりましたが、伊勢神社の裏山
一帯に「伊勢」の名前が残りました。地元の話によれば、医
王寺裏の墓地の北西隅に隣接する場所に正方形の土壇が
あり、その上に円形の土盛があった。ここに伊勢神社の本
殿があったと言われています。古地図にはこの場所が「社
地」と誌され西の池は「伊勢池」、北側一帯を「伊勢山」と呼
ばれています。近年、竹之内の塩出さんが、屋敷内に伊勢
神社の祠を造り、再建して祀っておられます。(写真上)

2010/05/18 Created
 
 「塩出城」にかんする情報 → 知人からの仄聞の確認です
 
 国道二号線が伊勢丘からの道と交わる三叉路には跨線橋が国道を跨いでいる。この峠を勝負峠(しょうぶたお)という地名がつ
いている。二号線に沿った方向で東には大門貝塚があり西側は引野地区の古地(こじ)にも貝塚が散らばって出土するらしい。
福山から笠岡への笠岡往来は国道二号線の北側の山際に沿って東へ延びている。勝負峠の北、JRの北側を大門駅へと続く。
この塩出城の立地は西向きであり東側は山を背負って視界は遮られて見えない位置にある。その代わり北の峠越え往来と西に
開ける海(江戸時代の水野干拓の前まではこの辺りまで海だった)は一望の下である。
当日は二号線を右折して跨線橋を渡って南下し、「文」マークの英数学館の前の子径を右折してあとは歩き。写真の場所を探しあ
てるまでずいぶんてこずった。ブロック塀に囲まれた塩出家の墓所のなかにあって、知った人に径を尋ねないとたどり着かない処。
中央の自然石の碑には塩出家先祖の戒名が彫られている。裏面には元禄の刻印が見えるので江戸時代のご先祖であろうか。
右脇に比較的新しい五輪塔がある。正面:「塩出城主塩出伊勢守供養塔」、側面:「塩出氏先祖代代各霊菩提也」、裏面:「六百回
忌記念 平成二年五月廿七日建之」
この碑文からは塩出伊勢守という名前だけなので人物特定はできないが、平成二年(1990)から600年を遡ると明徳元年(1390)
となる。明徳三年(1392)10月に南北朝統一和議成立。「後亀山天皇は神器を後小松天皇に渡し、京都に帰る」、とあるので室町
幕府開闢の頃となる。塩出家には伝来の家系図があるのだろう。
大津野~引野地区では最も早い時代に築城された山城とおもわれる。


位置: 福山市引野町竹之内
 <近隣古城サイト内・リンク>
  枝廣城(大津野)  →  ClickHere
  矢崎山城(引野)  →  ClickHere
  沖之城(春日池)  →  ClickHere

 *『西備名区』
向永谷村(福山市駅家町)庄屋・馬屋原重帯(1762~1836)
[まやはらしげよ]著作の備後全域の地誌。草稿本90巻34冊
(完備),清書本89巻89冊(初巻欠,第27巻後補)からなる。
(県重要文化財典籍:昭和41年に指定・保管場所:福山城
博物館に寄託)草稿本は文化元年(1804),その後も改定
増補が続けられ,清書本は「文化五年夏馬屋原重帯誌」
の跋文(ばつぶん)がある。郡別各村地誌的情報を詳細に
記し,後の「福山志料」などに先行した書。他の伝写本と異
なり著者の自筆で完全な姿で子孫に所蔵されていること,
備後全域のほとんど唯一の詳細な地誌として史料的価値
があり,県地域に密着した著作として貴重である。