| 住宅街に在る「春日能島の二城・沖之城&中根城」 城主は大橋山城主高田河内守の家老・能島三郎正信と伝えられる。 |
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| 浦上在住の神原さんに春日村の由緒を聴く 長梅雨の晴れ間となった八月三日の午後、神原さん を訪ねて能島二城の場所を教えていただいた。 神原氏のご先祖は坪生庄の有力土豪であったと伝わる あの高名な神原一族の末裔だととのこと。 大津野上之坊には坪生神原一族の宝篋印塔が祀られ ている。現在の神原さんの菩提寺は坪生西楽寺との事。 水無瀬山西楽寺は昭和2年の「坪生村郷土史」には『 弘安4年、陶山勘兵氏建立とある。 神原さんの思い出として祖父に連れられて徒歩で金浦 まで仔牛を引いて歩いて行った話や、浦上から春日池 まで、牧草地へ放牧の乳牛たちを誘導して過ごした幼少 の日々の春日一帯の風景を聴かせていただいた。 上の写真は春日能島の中根城のあった沖田団地から 春日池方向を眺めた景色である。能島の小丘を貫いて 伊勢丘~引野~野々浜~笠岡道の要衝には唯一能島 に水野時代の「左堂」(四ツ堂の呼称)が残っている。 寛永20年(1643)に春日池が完工後、春日神社が建立 された。沖之城跡は春日神社参道と向いあわせの位置 に在ることから、春日村全体を眺望できる要衝に城 主の居館が造営されていたことだろう。 |
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2009/08/04 Created 福山市春日町の史誌「春日村略史」より抜粋 能島の沖之城々主能島三郎正信は、備中小田郡城見村大字大冝(旧大下)の大橋山城々主高田河内守の家老であった。 高田氏は元弘元年(1331)桜山茲俊が新市に挙兵し南朝方として備中へ攻め込んだ時、茲俊幕下で参戦し、大冝城を攻略 後に入城し、そのまま城の守備に就き居城、大橋山城と改名したと伝えられる。 能島三郎正信の先祖は、当初高田重兵衛政信が大冝に入る前、大橋の天神山城の頃から同城で家老を勤めていのであろう。 その後、子孫代々沖之城に居城し、三郎正信の代に至り陶山一族に大橋山城を攻められて主君と共に運命を共にした。 天正年間(1573-1592)の頃の大橋山城々主は高田河内守則義であった。則義は北條方の陶山氏の子孫に攻められて落城し、 大門真明寺にはいって切腹した。現在大門真明寺境内にある宝篋印塔五基のうち、やや大きめの一基が則義のもので、 やや小さめの四基のうちの一基が殉死した能島三郎正信の墓であろう。 能島三郎正信は、高田河内守則義の没落とともに没落した。 能島氏の落去後は、引野の矢崎山城主塩飽帯刀光政が能島辺を領し、その家老塩飽五郎兵衛尉を沖之城に住せしめた。 能島氏の落去は天正の頃であったので、塩飽五郎兵衛尉が沖之城に入城したのは、それから間もない頃であったろう。 然るに文禄4年(1595)には山城禁止令がでたので、その頃大名以外は全部城から出た。塩飽氏もその時城から出た筈で あるから塩飽五郎兵衛尉の在城は短期間であったものと思われる。 能島の中根城(ウネ城)には、藤岡三郎左衛門尉治成が居城した。「西備名区」は中根城の城主とし、また「一本古城記」には 天文の頃の郷士なり。子孫水野家へ勤仕すと云、としている。 能島と高田氏との関係。前者は伊豫村上水軍の居城、本拠地である。笠岡城の城主村上隆重も能島水軍だ。一方高田氏は 品冶郡大橋村 (駅家町大橋)とされる。能島氏が能島を姓とし、この辺り一帯が能島という地名として残っているのを考慮すれ ば能島氏はかなり古い時代から住み着いた一族であろう。 高田氏が大冝に入城するのが桜山茲俊の挙兵だとすれば高田氏は南朝方、能島氏も当然ながら南朝に与する勢力だった。 一方、能島~大冝の陸上距離は凡そ5Km、海上だと迂回して金浦湾から入るコースなので倍近くなるだろう。ともあれ大門の 真明寺へ逃げ込んだことなどから高田氏の支配する領土は大冝から西方へ広がっていたことがわかる。 この陸上5Kmの間には大門の枝廣城・明知山城と用之江の森山城、茂平の高丸城がある。 陶山氏は明かに北朝方なので、森山城へ陶山氏が居城していれば当然ながら能島氏の往来も容易ではなかったと思われるが さて、、、、 |
位置図: 福山市能島二丁目 <周辺史跡 サイト内・リンク> 坪生の西楽寺 → ClickHere 野々浜上之坊 → ClickHere 野々浜真明寺 → ClickHere 大冝大橋山城 → ClickHere 高田河内守一族→ ClickHere |
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