| 毛利元就の八男「毛利元康」 の居城「王子山城」(深津城趾) 所在地:広島県福山市王子町、現在は「王子神社」境内、「薬師寺墓所」となっている。 |
訪問DATE: 2010 01 23 ![]() |
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| 「王子神社」由緒(境内案内版より) 御祭神 須佐之男命 八王子 備後風土記(紀元七百十三年:奈良時代初期に編纂 された備後国の風土記で鎌倉時代中期、卜部兼方に よって記された釈日本紀に、「備後国風土記逸文」とし て「蘇民将来」の逸話伝存で有名。)によれば須佐之男 命が朝鮮より八王子と共に帰朝し吾等を信仰すれば その子孫を疫病から守ると申されたので、深津郡の 人々はこの深津島山に王子神社を建て以て広く当地 方の人々の崇敬するところとなる。 式内社研究家、元京都大学教授文学博士 志都剛氏 の説によると延喜式神名帳(紀元九百二十七年)に載 せられている備後国深津部須佐能袁能神社は当社で あると断定されている。 昭和五十七年三月 深津神社総代 |
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2010/01/23 訪問 「深津城」にかんするサイト検索 → Hit 「小田郡大島村原田家のルーツ」 HP 国道2号を福山駅前から東に向い、イトーヨーカドを過ぎた王子町の水路を渡った北側に低い丘が見える。 これが王子山城or深津城跡である。城跡へ昇る道ゆきは北側からこの丘を目指して歩き、薬師寺の前を南に進むと王子神社 の鳥居が見える。この参道を登れば王子神社境内に着く。ここが王子山城の本丸跡だという。備陽史会田口さんのHPによれば 『「備後古城記」をひも解くと、「深津村 王子山 毛利大蔵大輔元康 毛利元就卿之息 七男 慶長三年」とある。http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/taguti_teacher/039/index.html』 |
位置図: 福山市王子町 <笠岡遊歩関連・サイト内リンク> 笠岡城跡 → ClickHere 神辺城跡 → ClickHere |
| 2010/01/24 Created 「毛利元康」 毛利元就の八男。少輔七郎。官名は兵部大輔、文禄四(1595)年従五位下、任大蔵大輔。永禄三年(1560)~慶長6年1月13日(1601年2月15日))、元就64歳の時の子、 母は側室の三吉氏。はじめ出雲末次城主に任命され「末次」を称したが、天正十三(1585)年、兄の出雲富田月山城主毛利元秋がなくなったため、兄の跡をついで富田城主となった。 元康が備後に入部したのは天正十九(1591)年、吉川氏当主の吉川経言が月山富田城主となったため、元康は備後国神辺城主となった。備後国安那郡1万88石をはじめ、 深津・沼隈郡そのほかで合計2万3,828石余を領した。1592年(文禄元年)から始まる豊臣秀吉の文禄・慶長の役にも主君・毛利輝元の名代として朝鮮に出陣している。 弘安の役後の1598年(慶長3年)に王子山城を築城し、居城を神辺から海に面したこの王子山城に移した。嫡男の元宣はこの城で生まれている。 「笠岡市史」によると元康は文禄四年(1595)小田・甲弩・走出・山口・新賀・関戸が毛利輝元の蔵入地となりった後、慶長三年(1598)王子山城主(深津城)元康の所領となり 翌慶長四年(1599)には笠岡城主村上景広が周防への所替えとなり、同じく元康が所領した。元康が笠岡城下の整備ため笠岡西の浜の漁師たちを漁渚に集団移住させたという話は 伝聞として残る。 「毛利元康書状、井原で発見」 http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics040818-5.html 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦い直前、西軍側の毛利家が東軍側の四国伊予地方の武将を寝返らそうとして送った書状が、井原市内の民家から見つかった。 書状は毛利元就の八男の元康と、毛利家当主輝元の重臣、堅田元慶の連名で、現在のサインにあたる花押が入っている。 伊予の武将久枝又左衛門宛てに、「今がその時なのでしっかり働いてほしい。詳しくは孫左に口答で伝える」と使者の曽根孫左衛門の名前を出し、西軍側に加わるよう求めている。 縦33・5㎝、横50㎝で、関ヶ原の戦いの約1か月前の8月18日の日付。輝元は当時、伊勢を攻略中で、東軍側に付いた藤堂高虎らが不在の隙に伊予の切り崩しを図るため、 側近らが書状を送ったとみられる。『萩藩閥閲録』には、他の武将2人にも同様の書状を送ったことが記されている。 鑑定を担当した久野修義・岡山大教授は「内容自体は知られていたことだが、原本が出てきたのは意味がある。毛利家に関係の薄い井原市で見つかったのも面白い」と話している。 (中国新聞2004-08-18) |
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