福山藩干拓工事の事情
「福山市史」に茂平干拓工事をさがす
福山市史より抜粋:福山藩の成立、徳川幕府時代の福山。
元和5年(1619年)、家康とは母方の従兄弟関係であり親藩大名だった水野勝成が大和郡山より福山へ移封となる。
勝成は当時56才、7/22に移封通知を受け 海路にて南下、8/4に鞆津上陸後、神辺福島丹波旧邸(神辺城)へはいった。
神辺城は天文7年(1538)、天文18年(1549)、永禄12年(1569)の攻防で落城していること(山陽道という基幹道路に近い場所は敵からの攻撃を受けた
ときの対応のリスクが高いこと)、さらに当時の物流交通は海上に重点が移行していた。
つまり年貢米の大阪回送など船による瀬戸内回送が主流であり、水際線に面していない神辺よりは福山が城下町にふさわしいとの決定が下された。
築城は候補地のなかから野上村常興寺山が選ばれ、幕府からは絵図面割師・石垣奉行などの人的援助と御助力として12,600両と銀380貫の借入れ
金、加えて豊臣家ゆかりの伏見城の拝領品の櫓・ご門・御殿・など建造物の下知を受けた。
当時の芦田川の本流は本庄高崎の端から神島にあたり、おおきく東南に流れを変えていた。当初まず野上新涯を完成させここに移住、造成に際し
灌漑用水池を村内に築造した。この福山城建設工事の竣工はわずか三年後の元和8年(1622)8月15日、勝成が正式に入城したとの記録。
城号は「敵追山(鉄覆山てきおいざん)朱雀院久松城、またの名を葦陽城(いよう)」、それを巡る城下を福山と命名した。
(城が築かれた山を蝙蝠山(こうもりやま)といい蝠の字が福のにながっての命名だという説もあり)

城下の新田獲得のための干拓工事はその後も継続的におこなわれ、個々の工事の種別は明確に分類されてはいないが、工期は
①第一期: 勝成入封から二代目城主勝俊死去前年までの35年間(1619-1655年)
築城のときの普請奉行であった神谷治部が中心に工事に当たったとされる。
芦田川の治水・築堤から着手し、野上新涯、三吉、木之庄、吉津、奈良津、吉田、引野、沼田。また服部の大池もこの時代の造成
注目されるのはこの時期の大津野村の「大谷新開」寛永元年(1624年)、野々浜新涯 寛永十九年(1642年)
②第二期: 本庄重政が召し出されてより彼の死去までの約20年間、城主は4代目勝種(1656-1676年)
本庄重政が中心で、柳津新涯を手始めに高須、松永、金見、浦崎、草深、水呑、多治米、手城。
内陸部では坪生、竹田、八尋、川南で新田造成。
大津野村関連では大門、津之下、野々浜に囲まれた入江が大津野新涯として寛文ニ年(1668年)完成、廿九町六反
③第三期: 四代目城主勝種から断絶までの約20年間(1677-1698年)
上席家老の上田玄蕃が中心
草戸・川口など
結論:笠岡関係の記述は、「備陽六郡志」からの引用で次のとおり。
(元和5年 1619年) (元禄11年 1698年)
備中 A勝成へ引渡し石高 8,427 石 B勝岑逝去後達し石高 11,335 石 B-A 2,908 石 1石1反とすると⇒ 290町歩
の表をあげながら、『勝成入封から水野家断絶までの79年間、石高の増加はおよそ3万石程度である。
・・・・深津郡の1万3千石増がもっとも多く、次は安那郡の約5千石、沼隈および備中で核3千石等で、、、、、、、
松永湾を中心に約三千石たらず、笠岡を中心に約2千石というのが石高の変遷からみた開発概況である』中巻p196

笠岡市史側での水野藩による新田開墾資料では、
寛文元年(1661年) 吉浜新田 107 町 6 反 6 畝 = 107.66 町 寛文9年(1669年) 生江浜新田 20
町
延宝2年(1674年) 富岡新田 42町 3反 = 42.3 町 延宝6年(1678年) 神島青島新開 9
町 合計:179町歩
なお茂平地区の水面埋め立て工事があっただろうとの推測値を、福山市史と同様に勝成引渡しと寛文11年(1671年)と比較している。
茂平 A勝成へ引渡し石高 207.35 石 C寛文11年 337 石 C-A 130 石 1石1反とすると⇒ 13
町歩
再計すると、192町歩で福山市史の290町との差は約100町となる。
いずれにせよ、福山市史の「備中」の明細が不詳、笠岡関係工事の詳細不詳、笠岡市史でも茂平干拓は推測であり、確証となる資料はヒットしなかった。
なお、茂平での吉原新田(約14町歩)は笠岡が天領になった後、文化8年(1811年)の竣工である。
干拓、新田開墾、灌漑工事にともなう「人柱」に関する説話記述。
お糸伝説: 正保二年(1645)11月 服部池
寛永二十(1643)年10月、福山藩初代城主・水野勝成が旱魃対策として、総奉行神谷治部に命じ着工。
福山領内九郡・二百四十ヶ所の百姓を夫役として総動員し、服部川を堰き止め周囲約四km、備後最大のため池(服部大池)を築造すること
になった。ところが、大変な難工事で、工事の最終日、病気の母親に代り、人夫として夫役に出ていた府川村の十六歳のお糸が突然、
『着物に横つぎが当たっていて、未婚の娘』を人柱に入れるという理由に当てはまると選ばれ、急流に飛び込み、堤の底深く、生き埋めにされた。
ところが、お糸には恋人がいた。相手の若者は毎夜池の堤でお糸の名を呼び、ついにはお糸の後を追い、池に身を投げてしまった。
それを知った人々は、お糸と若者の霊を慰めるため、池の辺の丘に弁財天を祀り、その辺に松と槙を植えた。
この二本の木は、お糸と若者の姿であるかのように根と根が絡み合い、枝と枝がもつれ合って大きくなり、『比翼の松』として、
「人柱お糸」の話と共に今も語り告がれている。
語り継がれている歌…… 「備後一かや 服部大池は かあいやお糸が 人柱」

人柱になったお米伝説: by 「福山市史 中巻P199」 元和九年(1623年)野上堤防築堤工事
芦田川本流を本庄・野上村の西側に沿うて草戸に向け放流する路筋を造るため、艮の端から池の渕・野上・五本松に至る千百間の築堤の整備
に当たった。この堤防を野上堤防という。この内側を仕切り、あらたに野上新涯を築成した。
この一連の工事に際し、野上村のお米といううら若い女性が、枠の築堤の人柱として犠牲に供されたということである。
また詳細は不明だがおなじ福山の土木工事に起因する「瀬戸池のおとせの物語」・「福山城月見櫓の人柱」などがあり、共通点は「継ぎ」の着物。

汐崎大明神:正保年間(1644-1648年)「福山志料」から孫引き市史p202
木之端・王子端から引野村の梶島山に向かって千間堤を築き深津・市村・引野の各新涯および深津沼田百七町歩・市村沼田九十四町歩・引野
沼田百十八町歩が開発されることになる。
この築堤工事も困難をきわめたようで、築造中しばしば波浪によって決壊して中断された。
「正保4年甲申の秋、隠居の勝成が深津村の汐崎に見聞にいったとき、庄屋藤井庄五郎がいうには、この浜辺に汐崎大明神といって不動明王を本地
とする社がある。ここへ祈願をこめたならば、たちまち土手がかたまり、新開の工事も成功するであろう。
そこで勝成はこの言葉をいれて祈願をこめるとその通となったので、ここに新社殿を建て神田五反を寄進した。」
塩崎神社の縁起にからむ説話である。
港町と共に繁栄してきたのが遊女屋である。鞆の津では比較的資料が豊富に残されている。
(その起源)
鞆の遊女の起源は、古く神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説に結びつけられたり「平家物語」「太平記」に依拠する平家の上臈に求めたりしているが、十四世紀初頭の「とはずものがたり」にも鞆の遊女の存在が語られている。
江戸時代の遊女はそれまでとはちがって幕藩権力の公認のもとに遊女屋が置かれ、厳しい統制下で管理されていた。
鞆の港の有磯町の遊郭の由来については、寛永末年(1644)、伊予の国の住人宮内という者がここで遊女を抱えたことに始まると伝えられる。
明確な年限を記した文書はないが、元和・寛永期には鞆遊女屋の公認がおこなわれてたうようである。阿弥陀寺の釣鐘には承応元年(1652)奈良屋の寄進が刻まれている。当時、既に相当の資力を持っていたことを示している。
(その運営)
江戸時代の遊女屋は当初は「四軒屋」呼ばれた(奈良屋・広嶋屋・黒格子屋・吉野家)が、黒格子屋・吉野家が比較的早く潰れ、元禄(1688-1704)以後の鞆港の発展に伴って姫路屋と福島屋に入れ替わった。 この四軒の遊女屋は「株」として公認を受け、轡(廓)屋と呼ばれてその後の元禄・享保以降の揚屋とは区別されている。
元禄13年(1700)の鞆町検地帳に残る四軒屋の記録から規模がうかがえる。
奈良屋 屋敷面積 2畝18歩 間口x奥行き 6間4尺x11間4尺 広嶋屋 1畝26歩 間口x奥行き 6間1尺x9間5尺
黒格子屋 屋敷面積 1畝06歩 間口x奥行き 8間5尺x4間1尺 吉野屋 0畝26歩 間口x奥行き 2間3尺x10間3尺
奈良屋が一番の旧家で遊女の数50人、外の店では20~30人といわれている。
出島勤務のオランダ人ケンぺルは元禄4年(1691)、「江戸参府紀行」にも鞆遊女屋の記述が残っている。
また、寛政年間(1789-1800)成立の「諸国遊所見立角力表」には、大阪・江戸・京都に次いで「備後有磯町」の名前で播磨室津と並び前頭に名前を連ねている。
(その取扱い)
遊女屋は商家のなかでも賎職とみなされ、資力があっても町役にはなれなかった。
また治安上、外の地域とは木戸による境界が設けられ、「道越町定め」として有磯町に対し15ケ条の法度が公布された(安永6年(1777))
元禄以降に増加してきた揚屋への遊女派遣も株内4軒からの出店の型がとられた。
遊女の扱いは親の納得の上の年季売りなど、人身売買によるものだけに、仕事初め時の役人への届出等、身元確認には十二分の制約があった。
(遊女の格式)
傾城(けいせい)・芸子(げいこ)・禿(かむろ)の3ランク。
祇園社祭礼等の行事のある期間は、遊女不足により御手洗から応援を求めたりがあった模様。
(遊郭の衰退)
総じて幕末に衰退。 名門奈良屋も天保7年(1836)には経営不振に陥り、「女郎芸子」を買うために家屋敷・家財道具・衣装・布団・蚊帳にまで抵当にいれて銀22貫目を借入れ、五ヵ年間毎月銀300目ずつ返済契約をおこなった。

☆広島県立歴史博物館 2009/01/31 はじめて入館しました。 - - - - - - → Click
鎌倉末期~室町時代に芦田川河口付近に実在していた「草戸千軒」の遺跡からの出土品が展示されている。
今日はそこで考古学公開講演として「倭人と鉄の考古学、鉄は弥生人に何をもたらしたか」 by 愛媛大 村上恭通(やすゆき)氏 14:00-15:30時
『 ニッポンがまだ倭人の時代、弥生時代後期に鉄が中国~朝鮮半島~北九州へと伝播された。いまから 2,200年ほど前の頃である。
その後、倭国で自国の鍛冶屋が生まれて生産に従事するようになるのは200年後、ちょうど今から2000年前頃だと思われる。
弥生時代の集落遺跡である吉野ヶ里からも出土している鉄器は、その多くは大陸産の品々であり国産は小型・薄型に限られた。
鉄器の分類として、鋳造鉄器と鍛造鉄器に分類すれば前者は大陸専用の高度な技術品であり、後者が当時の倭国の技術水準であった。
鉄器といえば武器であるが、倭国では農機具・漁具の類がよく出土している。その分布をみると、北・中九州(筑前・熊本・宮崎)から北は日本海流
に沿って島根~鳥取~若狭湾あたりまで、南は黒潮に乗って高知県へ。 つまり不思議ではあるが瀬戸内をわたるルートはナイということがわかる。
この弥生後期の鉄の分布ルートは鉄製の漁網錘(ぎょもうすい:網につける重り)の伝播からも鮮明だ。
☆2009/03/27 「鉄製の穂摘み具」5世紀・完全形で出土、by「朝日新聞」掲載 →Click Here
また、鉄剣の柄に青銅製の鐶(わっか:飾り糸などを通すもの=素環頭そかんとう)は九州内部では大陸様式をそのまま保っているが、いったん
九州を出るとその鐶ははずされている。その土地々の様式に変化を見せている。
鳥取県青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡、京都府奈具岡遺跡
ニッポンでも古墳~飛鳥時代と進むにつれて鍛冶技術はUPするが、大陸ではBC6~7世紀ごろにすでに鉄製造が行われていた。
現在、わたしは四川省の発掘を共同でおこなっているが、秦の始皇帝~前漢時代の遺跡がそのまま出土されている。
中国では鉄は貴重品であり玉などよりも上位に置かれた。
ただ大陸での製法は倭国の稚拙な技術とは異なって、五右衛門風呂サイズの塩竃を鋳造したり、鉄壁を墳墓に造ったり、
鉄製品の加工技術と大きさ・厚みなど、規模と水準が違ってる。鉄に金を使った象嵌があるが、あれば鉄が黒だから金が映えるのであって
昔からの鉄は鋼色ではなかった。
世界最古の鉄製品といわれているのはトルコ。古代アッシリアで造られた柄に金の象嵌がほどこされている短剣でBC2,000と言われる。
エジプトのツタンカーメンの遺構からも鉄製品は一点だけ、やはり短剣が見つかっている。BC1,300頃といわれておりエジプト産ではないようだ。
ヒトが炉で鉄を溶かす前は隕石にニッケルの含有する石から鉄器を造った。これが最古の形式といわれている。
<トルコで発掘された約4300年前の世界最古の鉄剣は、鉄隕石(いんせき)を原料に作られた。人類が製鉄技術を確立する数百年前のもの。
鉄剣はトルコの アンカラ郊外の王墓で70年前に発見された。全長約30センチ(刀身約18センチ)で、柄と鞘は純金製。死後の世界で使う
道具として作られた。 研究グループは、地球の鉄にはニッケルがほとんど含まれないが、隕石の鉄には約5%以上含まれることに着目。
鉄剣を所蔵するアナトリア文明博物館(アンカラ)の協力を得て、X線で成分を詳しく分析した。 その結果、鉄剣にはニッケルが約7%含まれる
ことが判明。地球の鉄鉱石から製鉄したものではなく、鉄隕石から作られた可能性が高いと判断した。
分析した東京理科大の中井泉教授(分析化学)は、「鉄隕石を切り出し、打ち延ばして作ったのではないか。鉄は当時、金よりも貴重だった。
人類と鉄の関係を考える上で非常に意義深い」>☆2009/03/26 「最古の鉄器」発掘、by「朝日新聞」1面に掲載 → Click Here
最近の話題で弥生時代の最大の鍛冶工房と報道された淡路島垣内(かいと)遺跡の発掘について。
2~3世紀の鉄製造跡と同時に住居跡も発掘され、しかも17棟もおなじ場所から見つかった。異例の規模で鉄供給拠点がこの淡路島にあった。
邪馬台国が近畿だとすればその先進ゾーンへの鉄器生産が裏付けられた。というような報道だったとおもうが、ここで発掘された鉄器は近畿の鉄
器とは異なっているし、17棟という数もおなじ時期に同時開店の鍛冶屋ではなく、ながい年月の移設による複数発掘の結果である。
この島での鍛冶集団は徳島の吉野川流域からの移住の可能性もあり、より状況を吟味したい。』
| No |
表題 |
事 跡 |
LinkDate |
| 01 |
大津野
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東部福山市街地はこの大門町で岡山県(笠岡)に接す。江戸時代の水野藩領土は県境を越え笠岡市まで広がっていた。 |
2009/08/03 |
| 02 |
坪生町 |
備後東端、平安末期には摂関一条家の荘園だった記録が最古、後に備中坪生庄なる記録も残存、福山市の前は深安郡。 |
2009/08/03 |
| 03 |
神辺町 |
備後国安那郡に属す。地名伝承として天別豊姫神社が神を護る森(神奈備)の変化で神辺になったという説が有力。 |
2009/08/03 |
| 04 |
古城跡 |
能島にはかって二城が築かれた。沖之城と中根城である。二城は共に備中小田郡大冝にある大橋山城を主城とした。 |
2009/08/03 |
| 05 |
八幡宮 |
浦上八幡神社。坪生庄の分裂に伴って坪生の新中八幡神社からご神体を村に持ち帰り祀ったという伝承の村社。 |
2009/08/03 |
| 06 |
矢崎山 |
引野の谷地池(たんじいけ)東方に五箇の手嶋城の一つ矢崎山城がある。毛利東征の戦国の頃、塩飽水軍庶流の城主 |
2009/11/06 |
| 07 |
塩出城 |
引野地区に残る山城のひとつ。この地区では最も初期の室町時代、伊勢から四王天(しおで)伊勢守が在城したと伝う。 |
2010/05/18 |
| 08 |
深津城 |
毛利元就の八男・毛利元康の居城。備後・備中にまたがるこの地方を領有した毛利家最後の武将。関ヶ原後、長門へ落 |
2010/01/23 |
☆2009/09/05 福山~笠岡市内に点在する金毘羅信仰について ⇒ ClickHere
| No. |
表題 Title |
内容 Contents |
| 001 |
福山干拓工事概観図:サイト「福山の干拓」からの(勝手転載)コピーです。 |
画像みる ↓ |
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岡山県と
の県境が
国道2号
線にある
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この古地図からわかること。
1-大津野村字大門と用之江は海つづきではなかった。
2-この地区でも三期に分けて干拓工事がおこなわれている。
第一期:寛永元年(1624) 大谷新開 第二期: 寛永十九年(1642) 野々浜新開 第三期:寛文七年(1667年)
3-汐崎神社は埋め立て工事以前にすでにあった。
大津野と茂平にはそれぞれ「塩崎神社」がある。
両社が共に勝成説話と同時期の勧請だとすれば1640年代、正保年間以降となる。
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| 002 |
大津野に鎮座する塩崎神社 |
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現在の
大津野湾
塩崎神社
前掲
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正面は樋門、その先は福山港
現福山港の最北端、西方より豊後水道をのぼり瀬戸の海に入り、来島海峡を通って鞆津に入る、方や、東より友が島水道をぬけ瀬戸内に入り難波津の沖をとおって鞆津に入る。
東西から瀬戸内に流れこむ汐は瀬戸内の中央、この福山の海で合流する。
福山の海の湊は鞆津と呼ばれた。
この鞆津よりさらに北に向かって航路をとると、やがてこの神社の前にでる。
もっとも、ここまで入ってくるのは次の絵にあるような小さい舟しか水深の関係で入ってはこれません。
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003
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平成の改築工事で干上がる春日池 |
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春日池は三つの池の集合体:
春日・引野・能島・吉田・浦上など、近隣地域は備後と備中にまたがった坪生荘の一部だった時期がある。
上図では春日池の完工は寛永20年(1643)、水野藩が最初におこなった新田開発のための水源確保に堤で囲って池を造った。
この作業には水野藩の現場事務所が堤に建て(3軒あったが今はナシ)、作業員は遠く小田郡からも招集されたという。増水により二度
の決壊 があったが、水野藩領内三大池(他は服部大池、瀬戸池)のうち人柱ははいっていないのはこの春日池だけだという。
【水野家支配下での土木工事の人柱伝説は少なくない。
服部大池(お糸)、芦田川堤防(お米)、瀬戸池(おとせ)、福山城月見櫓(ここは男性)、富岡新田(お七)、吉浜新田(お清)など。】
昭和44年12月、福山市が東部土地区画整理事案施行区域の一環として整備に着手し、現在は「春日池公園」となり、昭和61年6月に
開園。 公園の敷地面積は15万6000平方㍍(水面8万3000平方㍍)(「春日池公園碑」より)
☆2009/08/03 沖之城と中根城を訪ねる ⇒ ClickHere
春日池を見下ろす「春日神社」の隣に沖之城があった。元弘元年(1331)~天正年間(1573-1592)にかけて能島氏が城主として居城した。
引野の矢崎山城の城主塩飽帯刀光政が能島辺を領し、その家老塩飽五郎兵衛尉を沖之城に住せしめた。
中根城は沖之城の支城であり能島氏没落後は藤岡三郎左衛門尉治成が居城した。
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2010/01/24 更新 |
08/09/05 |

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