| 髙梁川と成羽川の合流点、備中落合、阿井の渡で落命す 尼子の勇将、山中鹿之介幸盛の墓 |
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| 高梁市指定文化財「山中鹿之介の墓」 写真左から成羽川が高梁川へ合流し、この地名を落合という | |
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| 備中高梁の落合橋より西へ二百メートルほどのバス停「鹿之介前」の広場にこの墓石がある。 (山中鹿之介:天文14年(1545)~天正6年(1578)歿、行年34歳: 此の地、阿井の渡し場で討死後、遺体の首は毛利本陣のあった備後鞆之浦へ首実験のために運ばれた。残った 胴体は龍泉寺にあり、胴墓として祀られた。鞆には鹿之介首塚がある。) 現地案内板に書かれているとおり、この碑は松山藩主石川総慶(ふさよし)の家臣前田時棟、通称市之進が鹿之介の死後、 35年後の正徳三年(1713)に建立した。先の事情により、墓と呼ぶよりは供養塔である。 当時、山中鹿之介の墓の印として植えられていた榎が、宝永・正徳(1710年頃)の大洪水により流失したため、正徳3年(1713) 松山藩主石川主殿頭総慶(ふさよし)の家臣であった時棟が足軽佐々木郡六と協力して墓を建立したと伝えられる。 碑の側面には「正徳第三龍集葵己十月建」、裏面には「尼子十勇 儕輩絶倫 不得伸志 無遭干時 忠肝義膽 爰樹爰封 殊勲偉績 千載流 芳前田時棟 謹銘」と忠誠の鹿之介を讃える漢詩が刻まれている。 また、墓石の下の台石には明治十六年八月の銘があり、地元有志の名前が刻まれている。 (訪問:2011/04/12) |
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| 位置図: |