高梁への布教は明治十二年、信者に福西志計子がいた
  
同じ時期に順正女学校の前身を開設、女子教育の礎となる
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2011/04/11 (Sunday) キリスト教高梁教会と福西志計子
備中高梁へのキリスト教布教活動は金森通倫、新島襄、村松介石などの名前が挙げられているようだが、雑誌『高梁川39』(s57刊)に「福西志計子
の生涯」by野口喜久夫氏が目にとまった。以下、その抜粋。

松山藩士福西郡左衛門(伊織)の長女として弘化四年(1847)12月13日、現高梁市御崎町に生まれる。
志計子は七才の時、父が没し教育熱心な母、飛天(ひで)の手で育てられた。
「上房郡誌」に云う。
『偶(たまたま)志計子の家、鉅儒(きょじゅ)山田方谷の居を隣す。世人が女子の学問を軽視するの時に於いて、志計子は書を携えて方谷の門に
出入りし、自ら研砺(けんれい)せり。其の志以て見るべし。』
志計子七才とは嘉永六年(1853)の頃、ペリーが浦賀に来航、陽明学者山田方谷は49才であった。志計子は一人子であり十七才の時、井上助五
郎を養子に迎える家庭にはいった。志計子の盟友として木村静をいう女性がいた。同じ松山藩士の長女として天保八年(1837)江戸桜田屋敷で
生まれ、志計子よりは十年年長であった。十六才の時、父母と共に松山に帰国し、本家に嫁ぎ二女をもうけたが三十一才で未亡人となった。

明治八年(1875)志計子29才、静39才の時に二人は岡山に出て、岡山裁縫伝習所に入る。翌年七月帰高し高梁女紅場(後の裁縫所)の教師とな
り、明治十二年(1879)にはキリスト教に入信、と二人は同じ道を歩んだ。明治十三年には高名な宗教・教育家新島襄が高梁を訪れ裁縫所で布
教演説をおこなっている。
このキリスト教との拘わりで世間からの軋轢に遭い、二人は失職、明治十二年12月に私立裁縫所(順正女学校の前身)を開設する。志計子35才、
静45才の時である。

明治15年(1882)4月26日、キリスト教高梁教会創立に際して15名の信者たちが集まり、その中に二人がいた。明治17年には教会最大の迫害が
あった。群集が仮会堂に殺到し、太鼓を叩き、大声で騒ぎ、川原の石を投げたという。その後、裁縫所は文学科を併設して順正女学校となり、教会
は明治22年9月15日に柿本町西北隅に献堂された。
キリスト教笠岡教会は明治26年(1893)、津山教会明治37年(1904)、井原市高屋教会は大正7年(1918))天城基督教教会[明治23年]
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