県北中西部の清流と山麓の町 高梁市


 成羽川が高梁川に合流する処、落合という

地名考

高梁市の概要:「岡山県風土記」より。

   県下三大河川のひとつ高梁川が標高3~500mの吉備高原をV字型に削りとった中流域の盆地に位置し、総面積229Km2のうち77%が山林である。
古代律令国下では下道郡近似郡は落合町・松原町・高倉町、賀陽郡大石郷と巨勢郷は高梁地区・津川町・川面町・巨瀬町、英賀郡(あがぐん)中
井郷は中井町に比定されている。
  合併の状況: 明治22年(1889)の市制町村制施行により、松山城下は高梁町、今津・八川(やがわ)の二か村が合併して津川村、増原・玉・下切
(したぎり)の三か村が合併して玉川村、阿部・福地(しろち)・原田の三か村と近似村のうち本村が合併して落合村、田井村と近似村のうち大瀬・八長
(おなが)および飯部村(いいべ)のうち奥組・川平・高谷(こうだに)・本村が合併して高倉村、宇治・穴田(あなだ)の二か村と飯部村のうち遠原(とおば
ら)および中野村のうち本郷が合併して宇治村、松岡・大津寄(おおづより)・神原(こうばら)・春木の四か村が合併して松原村、西方・津々の二か村が
合併して中井村となり、松山村・川面村・巨瀬村は一村で存続した。
昭和四年(1929)高梁町と松山村が合併して高梁町となり、昭和二十九年高梁町・津川村・川面村・巨瀬村・玉川村・落合村・高倉村・宇治村・松原
村が合併し、市制を施行して高梁市が成立した。同三十年中井村、同四十五年賀陽町のうち上竹・西の一部を編入した。
2004年(平成16年)10月1日 高梁市、川上郡川上町・備中町、上房郡有漢町との対等合併により高梁市となり現在の状態となる。


高梁市の中世の歴史:おなじく「岡山県風土記」より。
 中世には延応二年(1240)秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築く。これが備中松山城の起こり
である。元弘元年(元徳3/1331)には高橋九郎左衛門が備中守護職となり、地名を松山と改めた。
天正二年(1574)から同三年にかけて、三村元親の居城松山城が毛利氏の攻撃を受けた松山合戦が
展開し、三村氏は滅亡した。いわゆる備中兵乱である。
江戸期になり、慶長五年(1600)小堀新助(正次)・作助(政一・遠州)父子が備中国奉行として松山へ
赴任してから、城下町松山の本格的建設がはじまる。寛永十九年(一六四二)には水谷勝隆が入部し、
城下町松山はほぼ完成した。延享元年(1744)に板倉勝澄が入部、以後幕末に至る。
板倉七代の勝静(かつきよ)は山田方谷を登用して藩政改革を行い、老中として将軍徳川慶喜を助け
て幕政を担当した。(天主閣は現存。戦前の昭和14年から修復工事がおこなわれた。2011/04/11撮影) 



備中松山城
 備中松山城は、瀬戸内海沿岸と日本海を結ぶ要衝にあり、中世の備中国における政治的権威の象徴でもあった。
鎌倉御家人の秋庭三郎重信が備中国有漢郷(現上房郡有漢町)の地頭として台ケ鼻城(だいがはな)に来往したあと、仁治元年(1240)に築城したものといわれている。以来、この城は、鎌倉末期の守護高橋宗康、南北朝期の守護秋庭氏・高氏・渋川氏などの居城となった。
 その後、明徳年間(1390-94)から備中守護を細川満之とその子孫が世襲しはじめると、この備中細川氏はほとんど京都に在住し、松山城には守護所を置くのみで、備中猿掛城主庄氏と備中幸山城(都窪郡山手村と清音村との境)城主石川氏を守護代に任命して、国内の支配に当たらせた。満之の曾孫の細川勝久の代になると、応仁の乱(応仁元~文明九年1467-77)に東軍に属して戦い、備中国内では多くの荘園を押領して守護権力を強化していった。
しかし、十五世紀末に勝久の男系が絶えると、阿波守護細川之持(ゆきもち)、次いで管領細川高国の実父細川政春が備中守護に任命された。このころになると、守護の勢力は浅口郡などの備中南部に後退し、備中の中央部では守護代であった石川氏がまず台頭し、次いで、出雲国尼子氏に支援された猿掛城主庄為資(ためすけ)が、当時松山城主であった上野伊豆守を天文2年(1533)に滅ぼし、同城を手に入れた。

 次いで台頭するのが、安芸国の毛利元就の支援を得た備中国成羽荘(川上郡成羽町)の三村氏である。三村氏はもと鎌倉御家人の出身で、備中国小田郡に来任し、永徳元年(弘和元年/1381)以来、三村信濃守が天竜寺領成羽荘を押領している。『中国太平記』には天文三年に成羽の三村修理進家親がみえ、三村氏は信濃守以来、ここを拠点としていたのである。
 家親は、天文22年、元就の出陣を得て猿掛城下で庄為資と戦い、合戦後、嫡子元祐(もとすけ)を庄氏の養子に入れて猿掛城主とした。さらに、永禄2年(1559)には尼子方の城番が守っていた松山城を毛利の部将香川光景とともに攻撃し、のち同城を与えられて松山城に移った。以後、備中統一に邁進し、さらに、毛利の命令で伯耆・美作・備前にも転戦して備中の小戦国大名に成長していった。ところが、同九年二月、備前国の戦国大名宇喜多直家によって美作在陣中に暗殺され、三村氏の力は下り坂となる。

 あとを継いだのは次男の元親である。元親は父の死の翌年、新見荘を支配していた新見貞経(さだつね)を追って備北に勢力を拡大した。しかし、宿敵宇喜多氏を討つため二万余の大軍を率いて備前平野に侵入したが、かえって大敗を喫した(明禅寺合戦)。やがて元亀三年(1572)、織田勢力の西進に伴い、危機を感じた宇喜多が毛利に接近してくると、これに反発を感じた元親は、一族に諮って毛利からの離反を決意した。これを知った毛利氏は、小早川隆景を中心に三村討伐を決定、天正二年(1574)11月、いわゆる「天正備中兵乱」がはじまった。
                      
 元親は備中各地に一族を籠城させた。主な城は弟元範(もとのり)は楪城(ゆずりは:新見市)、叔父の政親(まさちか)は国吉城(川上町)に籠もらせ、妹婿の石川久式(ひさのり)は備中幸山城。実弟上田実親(さねちか)の拠る鬼身城(きみ:総社市)、さらに姉が嫁いでいる備前児島の常山などで毛利を迎え撃った。
攻める毛利勢はそれらをひとつずつ攻略し、天正三年三月には元親の守る松山城を包囲した。城方は二百挺もの鉄砲で頑強に抵抗したが、五月二十日からは内通や投降者が相次ぎ、22日夜、元親らは城を落ちていった。そして六月二日、元親は城下松蓮寺で旧臣の見守る前で自刃した。こうして、三村軍団は壊滅し備中の中世的権威としての松山城は陥落したのである。
       
社寺考
当日訪ねそこねた場所

①成羽町美術館: 旧成羽城の城壁を残す地に日本を代表する建築家安藤忠雄氏の設計による近代的美術館。
            大原孫三郎の命で欧州名画の蒐集をおこなったことで有名な地元出身の洋画家児島虎次郎の作品を多く展示する。

②備中神楽発祥: 備中神楽を考案し世に送り出した神官・西林国橋の顕彰碑。
            江戸時代末期に日名村(現成羽町上日名))の神官西林国橋はそれまでの土着的な荒神神楽に代わり記紀神話を取り入れて
            物語性を鮮明にしより動的な演出に神話劇を創出した。昭和31年、岡山県重要無形文化財の第二号に指定を受け昭和54年に
            国の重要無形民族文化財の指定を受けた。
 
成羽美術館と備中神楽「吉備津彦命と温羅の戦い」(成羽陣屋の石垣が残る跡地に建設)2011/04/11訪問
成羽本陣の跡地が成羽
美術館になっている。
3~4mほどの高さの立
派な石垣は天文年間に
星田から成羽に入った
三村家親が鶴首城を制
した。この居館は寛政年
間に水谷勝隆が築き万
治元年(1658年)に山崎
豊治が五千石の知行とし
て入封して、陣屋を完成
以後明治維新を迎えた。

景色考

 備北のみどころ:リンクサイト
 

No 表題 事 跡 備考
01 高梁キリスト教会 高梁へのキリスト教布教は明治12年に遡る。そんな時代に先駆たる二人の女性指導者が活躍した。 2011/04/11
02 山中鹿之介之墓 月山城合戦で毛利軍に捕らわれた鹿之介は護送中備中高梁の高梁川の《阿井の渡し》が終焉の地となった 2011/04/11
03 地名領家と地頭 旧川上郡川上町を流れる領家川を下地中分線として領家と地頭が分け合った鎌倉時代の歴史的痕跡 2011/04/11
00 以下、サイト外リンク
01 備中高梁成羽 成羽町エリアの観光ガイド。成羽町美術館、外 2009/12/05
02 高梁市HP 高梁市内観光マップ。高梁に関わる人物紹介ページはコンパクトにまとまって素敵です。 2009/12/05
03 備中松山城 臥牛山の山上にあり、天守閣と二重櫓、一部の土塀が現存。日本で現存天守を持つ最も高い山城 2009/12/05



 

No. 表題 Title   内容 Contents
001  吹屋 ふるさと村  画像みる    ↓
     

 吹屋の町並みの由来(町内案内板)

  標高550米の山嶺に塗込造りベンガラ格子の堂々たる町家が建ち並んでいるのは江戸時代から明治にかけて中国第一の鉱山町に
加えて江戸末期からベンガラという特産品の生産がかさなり、当時の工鉱業地として大いに繁昌した面影である。
幕末から明治にかけて吹屋はむしろ「弁柄の町」として全国に知られていた。しかも吹屋街道が拠点として銅や中国山地で生産される砂
鉄・薪炭・雑穀を集散する問屋も多く備中北部から荷馬の行列が吹屋に続き旅籠や飲食店の建ち並ぶ山間の市場として吹屋の繁昌を保
っていた。
これらの銅や鉄・弁柄は吹屋から更に荷馬負わされて成羽へ運ばれ、それから高瀬舟で玉島湊に集められ、玉島湊から上方や西国へ輸
送されたのである。江戸時代から成羽や玉島の繁昌は吹屋の鉱工業に負うところが大きかったと言われています。
当時の俗謡に
 吹屋よいとこ 金吹く音が 聞こえますぞえ 窓坂え
 吹屋よいとこ 金掘るところ 掘れば掘るほど 金が出る
 場所じゃ場所じゃ 吹屋は場所じゃ 東城やせ馬 来る場所じゃ
これらの俗謡は当時の状況を歌ったものである。

ベンガラ(酸化鉄)
酸化鉄を原料とし、精製した赤色顔料で古くから丸谷焼・伊万里焼・京焼などの陶磁器の赤絵・能登輪島などの漆器・衣類の染料家屋・
船舶の塗料などの色々な方面に使われた。

吹屋銅山
今から千余年前、平安時代に発見され、徳川時代には天領となり代官の支配下で全国の銅山師が請負経営した。そのうち住友(泉屋)・大
塚(福岡屋)、明治以降は岩崎(三菱)の経営の三期がピークで町もおおいに栄えた。
002  成羽 「山中鹿介胴墓」  画像みる    ↓

観泉寺墓
地に建つ
鹿介の
400年忌
の記念碑




 山中幸盛(やまなかゆきもり)通称・山中鹿之助  

     戦国時代の山陰地方の武将。出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。

戦国大名尼子氏の家臣。本姓は源氏。実名は幸盛(ゆきもり)、通称鹿介だが、講談の類で鹿之助とされたため一般には山中鹿之助(しかのすけ)なる誤った表記で知られる。幼名は甚次郎。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。


生誕 天文14年(1545815日、山中三河守満幸の次男,新宮谷山中屋敷で生れる。

      (自然石の碑あり:月山富田城の北側、菅谷口より新宮谷に向かう途中)
死没  天正6717日(1578820日)上月城から毛利支配下の松山城へ護送中に阿部の渡しで元春の刺客に討たれた。遺体は観泉寺(かんせんじ)の住職が葬り、中洲に榎を植えてその下に五輪の塔を建てたと伝わる。その後、五輪塔は洪水で流され、松山藩士前田市之進が現在の場所に碑を建てた。 
   (阿井の渡し  鹿之介最期の地 岡山県高梁市落合町 正徳三年(1713)備中松山藩の家臣前田時棟により建立
       ②高梁市の胴塚 阿井の渡しからさほど離れていない観泉寺墓地に胴塚がある。
        ③鞆の浦の首塚 福山市鞆の浦 静観寺
     ④大徳寺玉林院 京都市北区 鹿之介の末裔、鴻池家の建立の墓所。
     ⑤金戒光明寺 京都市左京区 亀井茲矩(養女の聟)の墓の隣に鹿之介の墓
     ⑥京都・本満寺の墓 伝鴻池氏の建立。
     ⑦鳥取県鳥取市鹿野町 幸盛寺・山中鹿介の墓
     同じく幸盛寺の山中鹿介の墓
     幸盛寺にある鹿之介の兄の山中幸高の五輪塔。昭和49年7月に建立
     ⑧広島県庄原市東城町菅 徳雲寺の首塚 尼子の残党が鞆から掘り出し、徳雲寺の裏山に埋葬したという
     ⑨広瀬町洞光寺 山中鹿之介の位牌
     ⑩月山富田城内の供養塔 慶長7年(1602)堀尾吉晴公の御内儀の建立。
     ⑪浄教寺の墓地内にある供養碑 広島県西区草津 1977・7・17鹿介4百回忌の供養の為に子孫の山中豊子氏建つ
     ⑫大山町末吉の供養塔(五輪塔) いつ、だれが建てたものかは不明)



 <山中家と鴻池との関係>

長男山中幸元(鴻池新6)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となった。鴻池家では毛利家への財政支援を行わなかったという。

鴻池祥肇(よしただ:兵庫県自民党)参院議員は、鴻池運輸や鴻池組(ゼネコン)などを創業した鴻池忠治氏の一門。

忠治氏は、関西の大侠客としても知られる人物で苦労して財を築いたとされます。大阪の豪商、鴻池家は山中鹿之助を祖に持つという両替商で、明治に入っても流通方面には手を広げず、銀行経営に専念したようです。(後の三和銀行、現UFJ銀行)鴻池議員・鴻池組・鴻池運輸側にも、UFJ(三和)側にも両者が関連会社のような記述はなく、忠治氏が、豪商・鴻池家の人物なのか、同姓の関係ない人物なのか不明ですのでわかりません。


003
 銅と弁柄里吹屋 「広兼邸」  画像みる    ↓

庭園より
衆楽園を
眺望す


水琴窟の
仕掛け

 広兼邸(屋敷前の案内板説明文)

大野呂の庄屋をつとめていた広兼家は、享和文化の頃(1801-1817)二代目元治が小泉鉱山を経営し、合わせてベンガラの製造により、
財産をなして、今みられるお城のような邸宅を建てました。
この武者返しのような石垣は、現在約半分が土に覆われていますが、石積みの見事さは他に類をみないほどです。
また、向いの山には花木を植え込んだ衆楽園と称する大きな庭園があり、当時の豪奢な生活をしのばせています。
  環境省・岡山県 

 武者返しの石垣に囲まれた屋敷はまさに城砦である。
スロープを昇って楼門をくぐると物見場があり、見張り人が寝起きできる部屋がある。厩・下女部屋・下男部屋・浴室・厨房が外郭を囲み
広々とした主の部屋が中央に造られている。庭園には「水琴窟」がしつらえてあり、水滴による音色を奏でていた。
「水琴窟」とは、日本庭園の特殊技法の一つと言われ、江戸時代文化文政の頃(1810)庭師により考案されたと伝えられる。
その構造は地中に小洞窟を造りその中に水滴を落としそこから発生する滴水音を洞窟の壁面に反響せしめる。
それを再び地上に漏洩せしめ、かくして庭園の風趣をより一層幽遠ならしめようとする装置。(「庭内説明文」より)

2009/11/27作成 2011/05/01
更新