飛鳥村キトラ四神特別展
消えゆく地名の記録を保存しませう~
☆2010/05/19 笠岡から日帰りツアーで飛鳥村へゆきました。
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高速道路を降りて明日香村をめざしてバスが走っているという。
土地勘もなく予備知識も無かったので、ガイドの説明にひらすらじっと耳を傾けていた。最初に目に飛び込んできた風景が左の丘陵。山というよりなだらかな丘とも云える大和三山のひとつ「畝傍山」、まさに明日香村到着の実感だった。
ネットで調べると、「標高は199m、大和三山の中で最も高い山で、火山が噴出してできた山。山麓には橿原神宮神苑や神武天皇陵の森が広がり、荘厳な雰囲気でより神聖さを感じさせてくれます。畝傍山の麓は、神武天皇が宮を開いたところとされている。」とのこと。
(畝傍山を詠んだ万葉歌)
・玉襷(たまだすき) 畝火の山の 橿原の
日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし
・・・《柿本人麻呂》 |
| キトラ古墳四神壁画特別展示 ⇒ |
平成22年5月15日(土)~6月13日 於:奈良文化財研究所 飛鳥資料館 |
(キトラ古墳)
二段築成作りの円墳で上段直径9.4m高さ2.4m、下段直径13.8m高さ0.9m、場所は小高い阿部山の南斜面に位置している。約1キロ北の高松塚
古墳で極彩色壁画が発見されたのを機に、昭和58年(1983)から調査が始まり、朱雀など四神図と獣頭人身の12支図、天文図などを確認した。
名称の「キトラ」由来は、「北浦」の転訛とも壁画騏寅ともいわれる。築造年代は壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃く
ないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている。
被葬者は未詳、候補者として、年代から天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、
銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、
西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」など6体の発見に留まっている。
天井には本格的な天文図があり、太陽、月、星座、赤道などが描かれていた。中国や韓国などに残っている最古の天文図は11世紀や12世紀の
ものであるから、現存する天文図のなかでは世界最古ではないかと注目されている。
<奈良新聞>より http://www.nara-np.co.jp/special/kitora/index.html
1-玄武(北壁) 北壁から剥(は)ぎ取った四神像「玄武」を2007年5月11日から27日までの17日間、同村奥山の奈良文化財研究所飛鳥資料館
で特別公開すると、文化庁が発表した。同古墳壁画の一般公開は昨年の「白虎」に続き2回目。 ⇒ ClickHere
2-青龍(東壁) きょうから壁画はぎ取り-戌、青竜、白虎と順次.はく落が懸念される石室の極彩色壁画をはがし、運び出して修復する国内の
古墳壁画で初の作業がスタートする。
約1カ月かけ、12支図の戌(いぬ)―四神図の青竜―白虎と慎重に進める予定だ。問題がなければ2004年8月4日、比較的小さい
西壁の戌図に取り掛かる。より大きな東壁の青竜を11日、9月上旬に西壁の白虎を手掛ける見込み。
外した壁画は裏に樹脂を塗り(裏打ち)、表打ちを取ってカビを防ぐ脱酸素剤と一緒にビニール袋に入れ、冷蔵庫で一時保存。
奈良文化財研究所(奈良市)に運んだ後で、本格的に修復する。 ⇒ ClickHere
3-朱雀(南壁) 朱雀は2007年2月15日、専用器具「ダイヤモンドワイヤー・ソー」で余白の漆喰(しっくい)も含め、縦約22センチ、横約52センチの
大きさで剥ぎ取りに成功。脱酸素材が入ったビニール袋に包まれ、湿度100%に近い状態で保存されている。 ⇒ClickHere
4-白虎(西壁) 文化庁は石室からはぎ取った「白虎」を2006年5月12日から同28日までの17日間、明日香村奥山の飛鳥資料館で一般公開された。
70センチ四方の木製の額縁に納められた白虎は、慎重に木箱から取り出され、展示用のガラスケース内の台の上に寝かすようにして
そっと置かれた。ケース内は常時湿度60%を維持。台は免震構造になっている。
はぎ取られる前の白虎(西壁)は、石壁から浮き上がり、いまにも落下しそうな状態だった。 ⇒ ClickHere
| No. |
石舞台古墳 |
内容 Contents |
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石棺(模造品) |
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【現地案内板】 特別史跡 石舞台遺跡(明日香村大字島庄)昭和27年03月27日指定
石舞台古墳は早くから石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名前で親しまれている。
昭和八年から実施された調査では墳丘は一辺約55mの方墳または上円下方方墳で、周囲には周濠と外堤が巡らされており、墳丘と外堤の斜面には貼石が施されていることが明かとなった。埋葬施設については南に開口する両袖式の横穴式石室で玄室長は約7.8m、幅約3.4m、羨道長は約11.5m、幅約2.2mあり、玄室から羨道にかけ排水溝が設けられている。石室内からは凝灰岩片が出土していることから家形石棺安置されていたものと推定される。
(石舞台古墳の復元石棺)
この石舞台古墳は、昭和八年の発掘調査で30数個の大きな石で築造された大規模な古墳で、6世紀末期から7世紀初頭のものであることがわかりました。古墳形状は、上円下方墳と推定されます。被災者は、古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子の桃原墓(日本書紀第22推古34年(626)『大臣・・・桃原墓に葬る』であるとの説が最も有力視されています。古墳の規模は、下方形墳(外隍がいこう・そとぼり)高さ4.8mで玄室南側の天井石は約77トンと推定されます。この発掘調査では、石棺は発見できませんでしたが、石室からは平に加工した凝灰岩の破片が見つかりました。このような発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基にして石舞台の石棺を復元致しました。
財団法人 明日香村観光開発公社
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飛鳥寺(別名元興寺、法興寺)、現在では安居院 |
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飛鳥寺略縁起(境内の「案内板」より)
祟峻天皇元年(588)蘇我馬子が創立した日本最古の本格的寺院。寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。
本尊の飛鳥大仏(釈迦如来像)は推古天皇拾三年(605)に天皇が詔して鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像である。
旧迦藍は仁和三年(887)と建久七年(1196)に焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永九年(1632)と文政九年(1826)に再建され
今日に至っている。
現在は真言宗豊山派に属し、新西国第九番、聖徳太子第十一番の霊場となっている。
飛鳥寺略縁起(境内の「案内板」より) 「遠路ようこそ飛鳥寺へ ご一読を!」住職謹記(要約)
現在の本堂は古えの中金堂(一塔三金堂)の位置に相当し本尊飛鳥大仏は推古天皇十三年(605)日本最古の金銅丈六釈迦如来像の造立
が発願、同推古十七年(609)に開眼供養されました。平成二十年はこの開眼より千四百年に当たり、火災には遭ったがそのまま座したまう
は奇跡の存在といえる。また、僧恵慈と慧聡がこの寺に住み聖徳太子の師を勤めた。
☆日本最古の伐採木材発見報道 2010/08/14 、、、、、by 「朝日新聞」 ClickHere
「元興寺」 ⇒ 極楽坊の禅室(国宝)に飛鳥時代初期の586年頃に伐採されたヒノキが使われていることが、総合地球環境学研究所(京都市)
の光谷拓美客員教授(年輪年代学)の調査でわかった。
世界でも最も古い木造建築とされる法隆寺(7世紀末~8世紀)を約100年さかのぼり、世界最古の現役の木造建築部材となる。(編集委員・
小滝ちひろ)
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蘇我入鹿首塚 |
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大化の改新(孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔)
大化の改新で蘇我入鹿の首が落ちたといわれている場所。
蘇我 入鹿(そが の いるか)は、大和朝廷の有力者。大臣(おおおみ)。大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。
642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父の大臣・蘇我蝦夷に代わって国政を掌理する。
中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。
五輪塔建立についての考察緒論 ⇒ 外部リンク 「入鹿の首塚考」http://sanzan.gozaru.jp/bb/bb52/bb52.html
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飛鳥大仏(飛鳥寺阿弥陀仏坐像) |
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聖徳太子立像
不動明王(室町時代)
勢至菩薩(平安時代)
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Webサイト「橿原日記」より引用
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2004_08_17.htm
明日香村にある飛鳥寺安居院(あんごいん)は、日本で最初に築かれた本格的寺院だった飛鳥寺の跡に建っている。飛鳥寺は、山号を「法興寺」、あるいは「元興寺」とも称し、飛鳥地方に都がおかれた頃は、大官大寺、川原寺とならんで三寺と称せられるほど有力寺院だった。しかし、鎌倉時代の建久7年(1196)に、落雷を受けて先ず塔が焼失してしまった。中世にはすべての建物が失われ、法灯も絶えた。本尊の大仏は雨ざらしのまま放置されていたという。江戸時代の初期に形ばかりの草堂を建てて大仏を雨露から守り、後には尼僧が大仏のためにお堂を建てた。これが安居院の始まりである。現在は飛鳥大仏を安置する堂宇と小さな鐘楼だけが主な建造物である。
我が国最古の寺院にもかかわらず、『日本書紀』は創建飛鳥寺の造営プロセスを比較的詳しく記録してくれている。それによれば、
●用明2年(587)7月、蘇我馬子(そがのうまこ)が諸皇子と群臣に呼びかけて物部守屋(もののべのもりや)を滅したとき、仏の加護で戦いに勝利したあかつきには、寺塔を建立し、仏法を広めることを誓う。
●崇峻元年(588)、蘇我馬子の要請を受けて、百済が仏舎利・僧・寺工・露盤博士・瓦博士を献上してくる。
この年、衣縫造の祖・樹葉(このは)の家をつぶして寺地とし、整地作業が始まる。
●崇峻3年(590)10月、山に入って伽藍の用材を伐採する。
●崇峻5年(592)10月、仏堂と歩廊の工事に着手する。
●推古4年(596)11月、飛鳥の法興寺が竣工。落慶の日に、慧慈と慧聡は法興寺に入る。
飛鳥寺の本尊である丈六釈迦如来像は、銅造、高さ275cmの坐像で、飛鳥大仏の名で知られている。この本尊の造営に関しても、『日本書紀』は次のように記述している。
●推古13年(605)、推古天皇が詔勅を発して銅と繍(ぬいもの)の丈六仏各一躯をつくることを誓願し、鞍作止利(鳥)を像仏工とする
●推古14年(606)4月、丈六の像が完成。金銅に安置し、斉会を行なう。
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0000/00/00更新 |
2010/08/16 |

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