陶山荘の在田城阯と櫓端(やぐらばな)
 西浜の陶山城へは海路40分の位置、陶山城城主は母方の城だった在田城
訪問DATE: 2009 04 15 

在田城跡(ありたじょう)
 現在の所在地は有田から東大戸へ抜ける備南広域農
道の北側に在る。この城のすぐ南には山陽新幹線が金
浦・明地の両トンネル間の600mを気中走行するので高架
が見えてる場所だ。在田神社の鎮座する標高50mほどの
山の東側の内山谷と呼ばれる平地からの舌状丘陵で標高
は24m。下からのぼってゆくと三連郭に削られた土塁とお
ぼしき形状がそのまま残っている。この場所を城とする
ならば、本丸にあたる頂上も平坦に削られて、今は畑が作
られていた。途中、箭竹が生えている場所があった。
肝心の眺望だが、地元で「櫓端」と呼ばれる標高18mの丘
は城跡から内山谷を挟んでわずか200m、ここからの眺め
は遠く大冝まで視界が開けている。吉浜新田に海水が湾入
していた頃、沖からの舟の見張りにはこちらが優れている。
内山谷は灌漑用池があり、集落を形成している。海が迫っ
ていた当時でも水田耕作が可能であったと思われる。
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 「陶山公民館」の「陶山氏の足跡」のパンフに掲載の内容
城主は文応年中(1260-61)小見山備中守で、陶山氏の姻
戚関係にある。
掘等の施設は発見されていないが、井戸は残存。

2009/04/15 Created
 この「在田城」探しは一年越しで、やっとたどり着いたという感じ。標識なし、地図もなし、ヒントは標高が24mだという記述のみ。
 今週早々、笠岡教育委員会の安東氏から「岡山県全県統合型地理情報システム」のネット情報を教えていただいた。この地図から
 在田神社との位置関係から、それらしき場所を探し、ヒットした次第。なお、「やぐらばな」という地名は地元の方からの聞き取り情報。

「在田城の城主が小見山備中守であったこと、その年代が文応年中であったこと、に注目すると陶山一族との重なりは次ぎの通り。
 陶山一族が最初に笠岡へはいってきたのは平安末期の天仁2年(1109)、第10世陶山和泉守盛高が平正盛に従軍し源義親を討取り
 その恩賞として備中国国小田郡の内魚緒・西濱・甲弩・および 3千貫を賜う、という事績に拠る。この後、第11世陶山備中守泰高が西
 浜に築城し陶山の笠岡での統治が始まる。
 ところがその後、平家一門である陶山氏は壇ノ浦合戦で平家側に参戦し、平家と衰亡の運命を共にし、笠岡を追われ鎌倉へと落ちる。
 第18世陶山道高は弘安の役(1280)の恩賞で魚諸郷以下3郷を下賜され笠岡に戻り、再び西浜の城へ入ったと思われる。
 この道高の母が小見山信濃守行信の娘で、彼の父・第17世陶山道国という鎌倉在住の武士と小見山一族との婚姻関係があった。
 平家が壇ノ浦合戦で滅びたのは寿永4年(1185)、道高の笠岡復帰の約100年前に先祖盛高との結びつきの土地に彼が呼び戻され
 たのは陶山一族の祖霊の導きのみならず、道高が笠岡に復興を果たす20年前に、既に在田には母方の親族小見山備中守が城を
 構え城主として統治していたことを考慮すると、鎌倉御家人の道高の笠岡入りが地元では大歓迎されたことだろう。

 城の場所を地図でみると東への海の流入はこの位置までなので在田城は東の最奥深部に当たり、東限の水際線上にあったと言える。
 西への海は地図より1Kmばかり奥の寺谷まで入りこんでいたと思われる。ここは教積院のある山際だ。一方南への海は大冝~吉浜
 ~西浜から瀬戸内海につながっており、陶山氏の本拠地である陶山城へは海上距離で2,500mほど。艪櫂舟でも30~40分もあれば
 陶山城へ到着する距離なので、この海上ルートは山越えの陸行よりははるかに時間稼ぎになったと思われる。
 

位置図:笠岡市有田(内山谷)

 <陶山一族関係サイト内・リンク>

  笠岡市 龍王山山麓墓所 → ClickHere
  笠岡市 鳶ノ子城阯  →  ClickHere
  笠岡市 鳴ケ端城址  →  ClickHere
  井原市 匠ケ城址   →  ClickHere