


陶山一族は、12世紀初めから16世紀初頭まで、笠岡地方に拠点を置いた武将とされる。 足かけにせよ400年の長期間に亘る一族の歴史にはそっくり笠岡地域の歴史が重なっているわけだが、伝承・口伝・口碑などの断片的な記憶と神社・仏閣に残された後世の手になる文献史料が現存し、同時代の一級歴史資料とはみなされていない。笠岡金浦湾の洲浜を発祥地として在田~漁渚にかけた龍王山・笠岡山とその城下町や遍照寺の在ったとされる甲弩~吉田村など、嘉承2年(1107)陶山盛高の領地拝領まで遡る陶山一族の歴史を掘り起こしていけば郷土笠岡の歴史も今とはちがった姿が浮かびあがってくるであろう。 『笠岡市HP・陶山氏』 より 「陶山氏は平安末から室町末まで数度の浮沈を重ねつつ笠岡で勢力をもった。 その始祖については諸説があるが、陶山氏系譜によると、 嘉承2年(1107)陶山盛高が平正盛に従って出雲の源義親を討ち、その功により魚渚・西濱・甲弩を賜り陶山城を本拠地としたとある。 平家滅亡とともに一時離散の憂き目をみるが、道國の時北条時頼に仕え弘安の役の手柄により再び笠岡を領地とする。 鎌倉幕府滅亡により存亡の危機に立つが室町時代には足利幕府の側近として中央で活躍する。特に弓術に長け「射手衆」として高名を上げている。 また文芸に秀で交友も広く、連歌師の宗祇や兼載が笠岡を訪れている。 応仁の乱で幕府の権威が堕ちるとともに陶山氏も没落し、その後歴史の表に名を連ねる事はなくなった。」 『陶山氏中興の祖・藤三義高』 鎌倉末期の陶山義高は陶山城から笠岡山城に居を移し、元弘の乱には幕府方として後醍醐天皇に敵対した。笠置山の戦いにも出陣し、一番乗りの功を挙げている。その後、後醍醐天皇方が優勢となり、赤松円心らによって六波羅が攻められると、備中国の兵とともに京に馳せ上ったが既に六波羅は陥ち、探題北条仲時らも落ちたあとであった。義高は仲時を追って近江国で合流したが、番場において野武士に前途を遮断され、合戦に及んだがついには敗れて、仲時とともに自刃してはてた。『近江番場蓮華寺過去帳』には、このとき討死した陶山一族の名が残されている。 『陶山刑部高雅の伝説』 寺間に寺の後(うしろ)という地名の所がある。ここに真言宗の自性院があった。寺伝によると、「往事、陶山義高の笠岡古城山に敗戦するや、単騎、海波を蹴って(神島)内浦というところに匿(かく)る。たまたま重病に罹り医薬功を奏せず、ついに千手観音に祈願せしに、霊感著しくたちまち快復せしかば、義高大いに喜び、堂宇を建立してこれを安置せり。これ現今の自性院の開基なり。のち火災にかかり青島に移りしが、ついで又現在の地・東村に転じたるものなり」とある。 ところが、「小田郡誌」では、「自性院蔵の奥書によれば、永正3年(1506)7月、笠岡城山の城主陶山刑部高雅は、讃岐国細川満氏の将、村上二郎満兼の来攻に遭い、防ぐあたわずして城を明け渡し、自性院に落ちた。 しばらく寓居中、家系を模写してこれを納め、布施をおこなう。時に永正3年8月三日」系譜では高雅は陶山義高から七代の子孫となる。 いずれにしても、この高雅の代で、源平時代より続いた陶山氏の歴史も幕を閉じたということになろう。 備後国深安郡坪生に、陶山氏の一族坪生氏がいた。 「坪生村誌」には、備後の国坪生に寺を建立した陶山勘兵衛がいる。弘安四年(1281)に備中高松より移住してきたという。 また、同地の寒森神社に「天文六年(1537)丁酉霜月 陶山又次郎武高」とある古棟札が残されていることから陶山氏一族であることは疑いないが、その系譜は不明である。 ☆2008/11/30 坪生村「寒森神社」参拝 ClickHere 陶山氏は戦国時代、一時勢力を振るい、小田郡陶山村・稲倉村などを領したが、のち毛利氏に服し小早川氏の麾下となった。
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