笠岡市金浦の背後に標高100mの山があり、行者山という。三峰からなる城山は本丸、東丸、西丸の連郭式山城の形とつくっている(「州浜」家紋の由緒となる)。
陶山氏顕彰会資料によると、この築城は大治4年(1129)陶山泰高の築城にはじまり、元享元年(1320)頃に陶山義高によって完成、代々陶山氏の居城となる。頂上付近には「お城畑」があり、西丸の石垣の遺構、中腹には「陶山の居館跡」と伝えられる観音堂と井戸が残る。


中世の武将 陶山氏の足跡(すやましのあしあと)


『陶山氏顕彰会』発刊資料より 2008/10/24 Friday

地名考
陶山一族について>
 陶山一族は、12世紀初めから16世紀初頭まで、笠岡地方に拠点を置いた武将とされる。
足かけにせよ400年の長期間に亘る一族の歴史にはそっくり笠岡地域の歴史が重なっているわけだが、伝承・口伝・口碑などの断片的な記憶と神社・仏閣に残された後世の手になる文献史料が現存し、同時代の一級歴史資料とはみなされていない。笠岡金浦湾の洲浜を発祥地として在田~漁渚にかけた龍王山・笠岡山とその城下町や遍照寺の在ったとされる甲弩~吉田村など、嘉承2年(1107)陶山盛高の領地拝領まで遡る陶山一族の歴史を掘り起こしていけば郷土笠岡の歴史も今とはちがった姿が浮かびあがってくるであろう。

『笠岡市HP・陶山氏』 より

「陶山氏は平安末から室町末まで数度の浮沈を重ねつつ笠岡で勢力をもった。
 その始祖については諸説があるが、陶山氏系譜によると、 嘉承2年(1107)陶山盛高が平正盛に従って出雲の源義親を討ち、その功により魚渚・西濱・甲弩を賜り陶山城を本拠地としたとある。
平家滅亡とともに一時離散の憂き目をみるが、道國の時北条時頼に仕え弘安の役の手柄により再び笠岡を領地とする。
鎌倉幕府滅亡により存亡の危機に立つが室町時代には足利幕府の側近として中央で活躍する。特に弓術に長け「射手衆」として高名を上げている。 また文芸に秀で交友も広く、連歌師の宗祇や兼載が笠岡を訪れている。
応仁の乱で幕府の権威が堕ちるとともに陶山氏も没落し、その後歴史の表に名を連ねる事はなくなった。」

『陶山氏中興の祖・藤三義高』
鎌倉末期の陶山義高は陶山城から笠岡山城に居を移し、元弘の乱には幕府方として後醍醐天皇に敵対した。笠置山の戦いにも出陣し、一番乗りの功を挙げている。その後、後醍醐天皇方が優勢となり、赤松円心らによって六波羅が攻められると、備中国の兵とともに京に馳せ上ったが既に六波羅は陥ち、探題北条仲時らも落ちたあとであった。義高は仲時を追って近江国で合流したが、番場において野武士に前途を遮断され、合戦に及んだがついには敗れて、仲時とともに自刃してはてた。『近江番場蓮華寺過去帳』には、このとき討死した陶山一族の名が残されている。

『陶山刑部高雅の伝説』
寺間に寺の後(うしろ)という地名の所がある。ここに真言宗の自性院があった。寺伝によると、「往事、陶山義高の笠岡古城山に敗戦するや、単騎、海波を蹴って(神島)内浦というところに匿(かく)る。たまたま重病に罹り医薬功を奏せず、ついに千手観音に祈願せしに、霊感著しくたちまち快復せしかば、義高大いに喜び、堂宇を建立してこれを安置せり。これ現今の自性院の開基なり。のち火災にかかり青島に移りしが、ついで又現在の地・東村に転じたるものなり」とある。
ところが、「小田郡誌」では、「自性院蔵の奥書によれば、永正3年(1506)7月、笠岡城山の城主陶山刑部高雅は、讃岐国細川満氏の将、村上二郎満兼の来攻に遭い、防ぐあたわずして城を明け渡し、自性院に落ちた。
しばらく寓居中、家系を模写してこれを納め、布施をおこなう。時に永正3年8月三日」系譜では高雅は陶山義高から七代の子孫となる。
いずれにしても、この高雅の代で、源平時代より続いた陶山氏の歴史も幕を閉じたということになろう。

備後国深安郡坪生に、陶山氏の一族坪生氏がいた。
「坪生村誌」には、備後の国坪生に寺を建立した陶山勘兵衛がいる。弘安四年(1281)に備中高松より移住してきたという。
また、同地の寒森神社に「天文六年(1537)丁酉霜月 陶山又次郎武高」とある古棟札が残されていることから陶山氏一族であることは疑いないが、その系譜は不明である。
☆2008/11/30 坪生村「寒森神社」参拝 ClickHere
陶山氏は戦国時代、一時勢力を振るい、小田郡陶山村・稲倉村などを領したが、のち毛利氏に服し小早川氏の麾下となった。

 

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神社

在田神社・有田八幡神社の由来

当神社には、在田神社と有田八幡神社が合祠されている。
 在田神社の創建は不詳であるが、平安時代の中期(九〇〇年頃)の延喜式神名帳に記載されている式内社である(備中の五宮の中のひとつ)。位階は嘉祥四年(八五一)正六位上、貞観元年(八五九)従五位下で、備中郷社五の宮である。
在田神社の主祭神は苅田彦命・苅田姫命(坂上苅田麿呂・阿知使主の末裔で鉄鉱及び水銀採掘の犬一族の神)で、併神は宗像神(国家鎮護と海路安全の神)である。
一方、有田八幡神社の祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫の三神であり、鎌倉時代に陶山藤三義高の勧請により、坪生庄新中八幡神社より氏子十八郷の中十三郷をもって分社したものである。
十三郷とは、有田、押撫、篠坂(備中坪生を除く)、入田、用之江、茂平、大冝、吉浜、生之浜、西浜、大河、木之目、西大戸の各村で、寛政五年(一七九三)建立の大鳥居に「大氏十三ヶ村寄進」と刻まれている。
本殿は、明暦二年(一六五六)四月に 再建したものである。

☆2008/10/24 参拝 → Click Here 









神社

神社の位置① (有田のバス停より北西へ徒歩3分で参道・鳥居より10分)
 神之峰(▲202.3m)の南麓、鳥居から約50mほど上った丘に鎮座する。
地形でみると昔は瀬戸内海の海水が西浜(いおすな)湾よりこの辺りまで湾入していたであろう。宗像神が祭神のひとりとして祀られていることから海と潮の香り漂っていて往時を彷彿とさせる。あとの祭神は苅田彦命と苅田姫命(坂上苅田麻呂)。奈良時代の武人でありその息子・坂上田村麻呂は有名。
この苅田麻呂は59才で没しているが、生前は国司として国内を転任し伊予・備前を歴任している。この事績の関係から祭神として祀られたのであろうか。参道を上る石段は長い時間に人の手で積まれた時間を感じる。
いろんな型の石があり時代時代に修復の跡が見える。
参道の中腹には神門があり、周りは檜の林となる。頂上には一対の狛犬が鎮座して迎えてくれる。台座の石に刻まれた銘は天保十四年八月吉日(1843)となっていた。
☆2009/08/19 在田神社再考 → Click Here 
 








笠岡十名山の一座、「神之峰」(▲202.3m)

この山の頂からの眺望は素晴らしい。
山が迫る北側を除いて西~南~東の三方に視界が広がる。
西は福山市街地~沼隈~走島・仙酔島、南に大飛島~六島、白石島・北木島、東に向かって佐柳島・高見島・児島まで。
つまりここから見える海域は笠岡湾の入り口を見渡せるということ。
海が見えるなら、その内側にある陸地も見える。馬鞍山、真倉山、大見山、栂の丸、御嶺山、虚空蔵山・遙照山・竹林寺山・阿部山まで。
杉谷から北上、右側には遥照山(▲406m)、前方に阿部山を望む。
まさに「神」の眺望だ。
何のため? 軍事的、地政学的な目的に決まっている。
平安時代から鎌倉~室町と武家社会に移行するにつれて都市は武装が必須となった。敵の襲来をいち早く察知し、的確な応戦体制を築くべく臨戦態勢を敷くための見張り所であり連絡場所、この峰の頂上に立って、自然の軍事要塞のように思えた。
 ☆2008/08/18 散策 → Click Here








真言宗小田原山教積院 (笠岡市有田)

元享三年(1323)陶山義隆を大旦那・祈願寺として勢信阿闍梨によって創建、式内社在田神社の神宮寺(社坊)である。境内には陶山義高の供養塔とおぼしき五輪塔の一部が残る。(勢信阿闍梨の開基で遍照寺の末寺)当時の教積院は、現在地より二○○メートルほど西の備中と備後を結ぶ間道の要衡にあり、陶山氏が備後を睨んで砦の性格を持たせたもので あるともいわれている。
 また、最近になって判明したことだが、境内の墓所には羽柴秀吉の備中高松城水攻めのとき、毛利方の武将であった高田豊後守の墓がある。高松城を守りきれなかった責任をとって、教積院で自刀。夫婦の戒名を刻んだ自然石がその哀話を伝えている。この高田豊後守は大冝にあった大橋山城の主、高田河内守則義(陶山氏と交戦の後、落城後敗走、大門にある真明寺の境内で自刃)の弟にあたる。

 ☆2008/06/13 散策 → Click Here

 ☆2010/04/15 高田豊後守墓 → Click Here















曹洞宗 笠岡山威徳寺(笠岡市 正寿場町)

領主陶山氏の香火院で寺領50貫が寄せられ、陶山氏の過去帳と墓石がある。
元弘元年(1331)の笠置山落城の時、陶山藤三義高は笠置寺の弥勒菩薩像を拝受し、威徳寺に安置したと伝えられる。
☆威徳寺 → Click Here

また、陶山氏の菩提寺は笠岡市西の浜に在る遍照寺である。
貞享三年(1686)に住職である秀遍法印が記した縁起によると、白鳳期(七世紀後半から八世紀初頭)に一」の国の大守笠臣の氏寺として吉田村に創建されたと伝えている。元弘年間(1331ー34)笠臣の遠裔・陶山藤三義高が笠岡に城下町を築くに当たり、この寺を町の中央に移転し門前町として発展を図ったという。
当時は山内に五ヵ寺の塔頭、二十四力寺の末寺を数え、嵯峨・大覚寺派の中本寺としてその勢力を誇っていた。また応永十九年(1412)には、当時の衆僧らが京都・北野天満宮に「切経」(国重文)を奉納するなど、都との交流があったことを伝えている。
 ☆遍照寺 → Click Here


 

No. 道ゆきガイド   内容 Contents
001 陶山公民館前に立つ案内板  画像みる    ↓
     


 陶山という地名(明治22年4月1日施行の法律第1号市制町村制)

  有田村・押撫村・篠坂村・入田村の四村長が協議の末に撰んだ新しい村の名前は「陶山村」だった。村内に陶山氏を祀る陶山神社があり、
 中世には陶山庄に属していた歴史的地名にちなむ命名。
 この案内版は陶山公民館の前に建っており、旧陶山村の村領全体が描かれいる。当時の村長は内山直三郎氏、447戸で村民数は2,324人、
 面積672.75町となっている。
 この陶山村に残る史跡が上の絵図で、東からみると広島県福山市との県境、幕山団地と接し真倉山(▲182.0m)がある。この真倉山には土塁
 跡があり、東より明知山城・森山城・明地城があった。陶山藤三義高は在田城(在田神社の南麓)より森山城へ敗走中に向山で討たれたという。
 その向山(むかやま)古戦場は県道3号井原福山港線を東へ越して、広域農免銀山道路と平行に陶山神社までの山越え古道にある。
 この山道に沿って、東より向山古戦場、籠山古戦場、千人塚、逆さ矢竹が並ぶ。また新幹線の北側には在田神社の鳥居から坪生へ抜ける福山
 往来があり、教積院・陶山一族供養塔・高田豊後守の墓がある。さらに東進すると坪生村領内に入り、新中八幡宮、神森神社、西楽寺がある。
 その北は神辺に接し、仁井城址と古戦場跡、須恵器窯跡など、坪生史跡探索マップに詳しい。
 
 
002  陶山氏顕彰会のゆかりの地略図  画像みる    ↓

長法寺

 
 陶山公民館を訪ねて、いただいたパンフの資料。
 発行もとは「陶山氏顕彰会」、その会の会長さんが公民館の館長さんだとか。
 毎月第四木曜日の13:30~16:00の間、郷土史講話をされているという情報を得た。
 例会のメンバーはすべて地元の方で、10数名いらっしゃるとのことだった。(2008/10/25 am Visited to Kominkan)
 
 パンフの表紙には「州浜」紋と二つの「山」が大きく描かれていた。
 かってイオスナに城があった山が、行者山。その山には三つの峰があり、その様が家紋と重なる。
 今も使われている三個の丸のデザインの「州浜紋様」は、浜辺と入り江の姿をあらわしたもの。
 『家紋の由来』サイトより引用
 「洲浜は三角洲など、浜辺にできる島形の洲。水の流れでいろんな恰好に変わる、それを柔軟なフォルムで捉えたまるみを
 おびたラインが特徴。また洲浜は、飾りや調度品としての洲浜台の意味もあり、平安時代から慶賀の式などに使用された。
 江戸時代には婚礼の飾りものとして用いられた。基本形は丸を三つ組み合わせて「品」の字のように重ねたものだが、
 バリエーションも多い。いずれも女体を彷彿させる柔らかで、なまめかしい形が面白い。(洲浜) 」
 このほか陶山一族にちなむ史跡として、
 篠坂:城関山仮名沢城、橋一族供養塔、常行院、観音院、大坊、真言宗三宝院、熊野神社そして神之峰
 入田:入田城、(入田古墳、たたら跡、百姓一揆犠牲者の墓、入田番所跡、国司神社、五本松峠、仁池、庄屋屋敷跡)
 押撫:(皇子神社、二ツ塚古墳、三(御)塚古墳)
 在田:竜王神社、代官屋敷跡

003
 陶山氏の系譜


画像みる    ↓
 
 高見王(817-855:異説あり)は平安時代中期の皇族もしくは賜姓皇族であったとされる。
系統図である『尊卑分脈』には名前と無位無官であった事だけが残っている。又『尊卑分脈』によると父に葛原親王(桓武天皇第5皇子)、
子に平高望とされ、その後の桓武平氏に直結する流れであるが、その実在が疑われている。


陶山氏にかんするリンクサイト
 
  武家家伝 陶山氏    桓武平氏平貞盛の分かれと伝える。 2008/10/25
  笠岡市HP 陶山氏   おなじく平貞盛からの系譜説に拠る  2008/10/25
  戦国武将系図       桓武天皇からの平氏までの系図 2008/10/25
 仁井山城(坪生)     仁井惟清(だたきよ)は陶山氏の80石取り家来、4代つづき文明年間(1469-1487)に落城す 2008/10/25
 備中在田八幡神社    式内社・備中郷社18番 2008/10/25
 備中・備後の延喜式掲載の古社 by Mr.永山卯三郎 2008/10/25
 坂上苅田麻呂       東漢氏に繋がる平安時代の武将(神亀4年727~延暦5年786)、坂上田村麻呂の父 2008/10/25
 福山市坪生町 寒森神社 → 天文六年(1537)陶山氏と坪生氏で香椎宮から坪生村に勧請し創建す


陶山氏にかんする城址一覧リスト

名   称  場  所  詳              細 
陶山城(西浜城址)   金浦の行者山  大治4年(1129)泰高~元享元年(1320)義高により完成。代々陶山氏の居城となる。
陶山神社 陶山藤三義高 威徳寺に伝わってきた「籠山古戦場記」なる古文書がありその伝承を紹介
笠岡山城址   笠岡龍王山山麓  笠岡の町づくり着手時に西浜より移り、現在の威徳寺辺りに居館を置き城郭を置いた。
在田城跡 09/04/15  笠岡市有田  標高24mの台地に築城。城主は文応年間(1260)小見山備中守で陶山と姻戚あり。
大橋城址   大冝・通称五軒屋  標高57mの丘陵、城主は高田河内守則義で陶山氏に敗れて大門真明寺で自刃す。
々上城主嫡子墓 高田豊後守重綱 大橋山城を継承するも小早川隆重の幕下高松城敗戦の責で教積院で自刃、墓標あり
森山城と明地城址  用之江  標高114mの丘陵、城主陶山義高が貞和5年(1349)足利直冬の先鋒と交戦した城。
仮名沢城址 篠坂の北西 標高150mの城関山、城主は橋佐渡守悪五郎勝信で、陶山氏の姻戚先。
仁井山城址 坪生町仁井の北東 陶山氏家臣・仁井四郎惟清が知行80石の城主、吉近・吉清・惟清・惟信で文明年間没。
工ケ城址 井原市上稲木 城主は陶山八郎吉次。元弘の乱(1331)で六波羅勢に加担、番場で割腹自決す。
鳶の子城址 09/04/03 追分東部の山上 標高145m。城主は陶山氏、小見山左衛門、北条早雲との緒説あり。
高山城址 井原市高屋 城主小見山次郎元忠は陶山義高の末の妹を妻とし代々の姻戚。笠置城夜討に参戦す
板倉城址 岡山市板倉 水野記に「天平二年陶山某備中高松に移住」寿永2年(1183)陶山左衛頭道勝記載有
大渡城址 総社市美袋 備中府誌に「永正年中(1504-21)城主田辺出雲守高倫、陶山の嫡家、笠岡城より移城
鳴ケ端城阯 09/04/02 笠岡市横島 横島から東に伸びた鳴ケ端には「塚大明神古墳」があり、その後背地に城があった。
陶山氏累代之墓 笠岡市大島二階 第42世陶山彦市郎高顕が嘉永から明治にかけて移住、墓所が残る。
陶山高雅五輪塔 大島松尾 笠岡山城最後の城主第27世陶山刑部高雅の墓標、上記の墓所とは別の場所にあり

005  有田に鎮座する陶山神社 → ClickHere  画像みる    ↓
陶山一族の系譜
 上の系図の皇族(桓武天皇-葛城親王-高見王)につながる始祖「高見王」から数えて八番目、第10世陶山和泉守盛高は康和元年
 (1099)将軍源義家の長子義親謀反を企て、盛高は因幡守平正盛の先鋒として討伐にあたる。天仁2年(1109)義親を討ち取り、
 恩賞として備中国小田郡の内魚緒・西濱・甲弩・および三千貫を賜う。これにより盛高の居城和泉國より備中国所領を懸持す。
 時代は平安、藤原氏が中央政界の支配下で平家の一門としての陶山氏が和泉国から備中笠岡への足がかりとなる一歩である。
 この有田陶山神社に祀られる第20世陶山藤三後備中守義高の活躍に先行する遙か220年前のことである。
 陶山一族の中興の藤三義高の事績は「太平記」にも記されて地元笠岡でも、多くの人にかなり知られているものの、陶山城を築城し
 西浜(現金浦町)でも詳細は知られていない。
 ☆2008/11/30 → 有田の陶山神社を参拝  PhotoClickHere 後日、荒神社と判明。陶山神社は↓です(w)。
  陶山神社までの道行きは案内表示なし。
 地元の人に道を尋ねて、吉浜・銀山から有田への道を進み、山際に沿って峠まで登ってゆくと、やがてこんもりと樹木の生い茂った
 一隅に、常夜灯と石段が目にはいってくる。注連柱なし、鳥居なし、神社名の刻印も表示もなし。
 山道から境内に導く10段ばかりの石段を登る切ると、本殿があった。

 ☆2008/12/01 → ホンモノの陶山神社を参拝  PhotoClickHere
 昨日の訪問は荒神社でした。
 陶山公民館に電話で確認をおこなったところ、ホンモノの陶山神社と状況が異なるため、再度地図で確認し、再訪問。
 教えていただいたとおり、神社には鳥居があり、神社の縁起の案内版も建っていました。
 陶山神社の祭礼は毎年10月の第一日曜日、有田地区のみなさんがお祭りをおこなうとの情報です。


 
2010/04/15 refreshed 2008/12/01