諏訪大社(上社本宮・上社前宮・下社秋宮・下社春宮)
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長野県古建築と町並み
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諏訪大社上社本宮
上社本宮概要
: 諏訪大社の創建は不詳ですが古くから信仰されてきた神社で孝徳天皇8年(652)、持統5年(691)、大宝3年(703)には朝廷から勅使が派遣され、
承和9年(842)には従五位下、貞観9年(867)に従一位、天慶3年(940)に正一位に授けられ延喜式神名帳には名神大社に列し信濃国一之宮となりました。伝承では坂上田村丸が悪路王を成敗する為、清水観音の神託により助成に加わった2神のうちの1人が諏訪大明神だったとされ、念願成就の際は特に狩猟を好むので、狩の祭を希望された古事から日本第一軍神として信仰されるようになりました。特に平安時代後期から武士、武将に信仰され、鎌倉時代には幕府から神領が寄進され、神官だった諏訪氏は次第に影響力をもつようになり戦国時代には諏訪周辺を支配する大名へと成長してきます。
武田領となると信玄、勝頼父子から崇敬され神領の寄進や社殿の再建、祭祀を復興などが行われますが、長篠の戦以降、武田氏は衰退し天正10年(1582)の高遠城攻防の際兵火は諏訪まで及び多くの社殿、社宝、記録など粉塵に帰しました。江戸時代に入ると幕府が庇護し上社には1000石の神領が安堵され、社殿も随時再建し元和6年(1617)に完成しています。又、諏訪周辺を領する高島藩主には諏訪氏直系で武田氏に滅ばされた諏訪頼重の従兄弟に当たる頼忠が徳川家康に仕えて諏訪氏を再興し息子の頼水が藩主となります。その後も諏訪氏によって庇護され天保2年から9年にかけて社殿を再建、現在見られる多くの建物はその当時のもので立川和四郎二代目富昌が棟梁として手掛けています。明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈により仏式が排除され御神体とされた鉄塔(石塔:2m)が諏訪家菩提寺の温泉寺に移されています。又、特殊神事として寅年と申年に、樅を山中から切り出し、境内の四方に神木を建てる諏訪大社式年造営御柱大祭があります。
諏訪大社上社前宮
上社前宮概要
: 諏訪大社の創建は不詳ですが前宮境内附近(神原)に勧請されたのが始まりと伝えられています。当初、大祝(最高統轄者)の住居神殿が設けられ諏訪大社上社の大祝職位式や大御立座神事など重要神事が全て前宮境内で行われ、
文明15年(1483)に大祝家と諏訪惣領家の内訌による争いで一時荒廃しますが後に再興され大祝の居館が移されるまで中心的な場所として多くの社殿が軒を連ねていました。室町時代中期に大祝の居館が移すと多くの建物も消滅しましたが本殿や内御玉殿、十間廊などの社殿が残り現在も粛々と神事が行われています。前宮本殿は諏訪大神が最初に居を構えた地と言われ左後方の小丘は諏訪大神の御神陵(聖地とされ古来より足を踏み込むと神罰が下ると言われています。)だと伝えられています。内御玉殿は案内板によると「 諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿である。「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」といわれたように諸神事にあたってこの内御玉殿の扉をひらかせ弥栄の鈴をもち真澄の鏡をかけ馬具をたづさえて現れる大祝はまさに神格をそなえた現身の諏訪明神そのものであった。
現在の社殿は昭和七年改築されとものであるが以前の社殿は天正十三年に造営された上社関係では最古の建造物であった。 安国寺史友会 」とあります。十間廊は案内板によると「 古くは神原廊と呼ばれ中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場ですべての貢物はこの廊下で大祝の実見に供された。毎年四月十五日の「酉の祭」には鹿の頭七十五がそなえられたがこれらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿がいることから諏訪の七不思議にかぞえられた。上段に大祝の座、次に家老、奉行五官の座があり、下座に御頭郷役人の座なども定められ左手の「高神子屋」で演ぜられる舞いを見ながら宴をはった。 安国寺史友会 」とあります。その他のも「御室入り」神事が行われていた御室社や御手祓道、小町屋の中小路、御神水である"水眼(すいが)"などの史跡が点在し"諏訪大社上社前宮神殿跡"として昭和39年に長野県指定史跡に指定されています。又、特殊神事として寅年と申年に、樅を山中から切り出し、境内の四方に神木を建てる諏訪大社式年造営御柱大祭があります。
諏訪大社下社秋宮
下社秋宮概要
: 諏訪大社の創建は不詳ですが古くから信仰されてきた神社で孝徳天皇8年(652)、持統5年(691)、大宝3年(703)には朝廷から勅使が派遣され、承和9年(842)には従五位下、貞観9年(867)に従一位、
天慶3年(940)に正一位(八坂刀売命は永保元年)、に授けられ延喜式神名帳には名神大社に列し信濃国一之宮となりました。下社春宮の祭神は建御名方命、八坂刀売命、御兄八重事代主神、主祭神は境内背後にある和田峠守護の神と考えられている八坂刀売命とされ金刺氏が大祝を務めています。下社では半年ごとに遷座祭が行われ2〜7月には春宮、8〜1月までは秋宮に祭神が交互に鎮座が変わります。この神事は秋に山の守護となっていた山の神が春になり里へ降り農作物の守護となる田の神に変わるという行為によく似ています。下社秋宮には本殿が無く御神木であるイチイの木を祭っていているとされ、その前には東西宝殿、さらに前には幣拝殿と左右片拝殿と神楽殿が建立され、さらに境内を囲むように4本の御柱が建てられています。これらの社殿配置は諏訪大社特有のものとされ、諏訪周辺の神社にも同じ様な系統の神社が分布しています。下社大祝である金刺氏は神武天皇の御子神八井耳神の後裔とされ上社大祝より神格化されなかったとされますが武芸的には秀でた家系で今は廃れましたが以前は霧が峰の八島に、広大な屋外円形桟敷を設けて武芸大会(神事の一種)が行われていたと伝えられています。
室町時代に入り上社と下社の間に騒乱がおき多くの社殿、社宝、記録など焼失、江戸時代に入ると幕府が庇護し下社には500石の神領が安堵され、社殿も随時再建されています。又、諏訪周辺を領する高島藩主には諏訪氏直系で武田氏に滅ばされた諏訪頼重の従兄弟に当たる頼忠が徳川家康に仕えて諏訪氏を再興し息子の頼水が藩主となり庇護されます。江戸時代に入り中山道が開削され下諏訪宿が開かれると多くの信者、旅人が参拝に訪れ社運も隆盛したとされ、特に宿場のいたるところに温泉が湧き出たことで湯治場としても多くの人達が利用しました。秋宮の社殿は諏訪出身の宮大工立川和四郎初代富棟が手掛け、安永10年(1781)に竣工しました。 明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈により仏式が排除され付近寺院に移されています。又、特殊神事として寅年と申年に、樅を山中から切り出し、境内の四方に神木を建てる諏訪大社式年造営御柱大祭があります。
諏訪大社下社春宮
下社春宮概要
: 諏訪大社の創建は不詳ですが古くから信仰されてきた神社で孝徳天皇8年(652)、持統5年(691)、大宝3年(703)には朝廷から勅使が派遣され、承和9年(842)には従五位下、貞観9年(867)に従一位、
天慶3年(940)に正一位(八坂刀売命は永保元年)、に授けられ延喜式神名帳には名神大社に列し信濃国一之宮となりました。下社春宮の祭神は建御名方命、八坂刀売命、御兄八重事代主神、主祭神は境内背後にある和田峠守護の神と考えられている八坂刀売命とされ金刺氏が大祝を務めています。下社では半年ごとに遷座祭が行われ2〜7月には春宮、8〜1月までは秋宮に祭神が交互に鎮座が変わります。この神事は秋に山の守護となっていた山の神が春になり里へ降り農作物の守護となる田の神に変わるという行為によく似ています。下社春宮には本殿が無く御神木である杉の木を祭っていているとされ、その前には東西宝殿、さらに前には幣拝殿と左右片拝殿が建立され、さらに境内を囲むように4本の御柱が建てられています。これらの社殿配置は諏訪大社特有のものとされ、諏訪周辺の神社にも同じ様な系統の神社が分布しています。
下社大祝である金刺氏は神武天皇の御子神八井耳神の後裔とされ上社大祝より神格化されなかったとされますが武芸的には秀でた家系で下社春宮に続く真直ぐ伸びた直線の参道はかつて多くの武士達が流鏑馬を競った馬場だったと伝えられています。室町時代に入り上社と下社の間に騒乱がおき多くの社殿、社宝、記録など焼失、江戸時代に入ると幕府が庇護し下社には500石の神領が安堵され、社殿も随時再建されています。又、諏訪周辺を領する高島藩主には諏訪氏直系で武田氏に滅ばされた諏訪頼重の従兄弟に当たる頼忠が徳川家康に仕えて諏訪氏を再興し息子の頼水が藩主となります。その後も諏訪氏によって庇護され、春宮の社殿は諏訪出身の宮大工柴宮長左衛門が手掛け、安永9年(1780)に竣工しました。 明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈により仏式が排除され付近寺院に移されています。又、特殊神事として寅年と申年に、樅を山中から切り出し、境内の四方に神木を建てる諏訪大社式年造営御柱大祭があります。
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