◆スペシャル・レビュー◆
『続・夕陽のガンマン』『復讐のガンマン』語られざる一面
by スコットマリー

『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』                                   
★作品データ PEAプロ作品/製作:アルベルト・グリマルディ/監督:セルジオ・レオーネ/音楽:エンニオ・モリコーネ
       出演:クリント・イーストウッド、イーライ・ウォラック、リー・ヴァン・クリーフ/テクニカラー/テクニスコープ(2.35×1)
       上映時間:2時間42分(日本初公開時)<イタリア公開完全版=約3時間>/日本公開:昭和42年12月23日/配給:ユナイト映画

『復讐のガンマン』                                           
★作品データ 製作:アルベルト・グリマルディ/監督:セルジオ・ソリーマ/音楽:エンニオ・モリコーネ
       出演:リー・ヴァン・クリーフ、トーマス・ミリアン、ウォルター・バーンズ他/テクニカラー/テクニスコープ(2.35×1)
       上映時間:1時間48分/日本公開:昭和43年11月23日/配給:コロムビア映画

『続・夕陽のガンマン』日本版パンフレット
『復讐のガンマン』日本版ポスター

『続・夕陽のガンマン』&『復讐のガンマン』語られざる一面

★ 両作品の意外な共通点
『続・夕陽のガンマン』と言えば映画ファンにはお馴染みの、イーストウッド主演作品。一方『復讐のガンマン』はビデオも出ておらず、熱心なマカロニ・ウエスタンのファンだけに知られたマイナー作品。しかしこの2作品には意外にも多くの共通点があります。

まず日本公開の時期。両作品とも『荒野の用心棒』から始まったマカロニ・ウエスタンのブームが一段落して物珍しさもうすれ、もうマカロニというだけではヒットしなくなった頃の作品です。どんなブームにおいても、ブームの勢いだけでヒットしてしまうような作品がある反面、非常にいい作品なのに公開されたタイミングが悪かったために正当な評価を受けない作品がありますね。『続・夕陽のガンマン』『復讐のガンマン』はどちらも後者であり、公開時期にリアルタイムで映画館で見た世代の人たちからは今でも評価が低い作品です。そんな両作品を積極的に評価したのは、時系列的な公開時期に関係なく作品に接することができたTVマカロニ世代と呼ばれる人たちでした。かくいう筆者もその1人ですが、両作品ともマカロニ・ウエスタンとして最高水準の内容を備えていると思います。本HPの画面比較コーナーを見るだけでも、その一端は垣間見ることができるのではないでしょうか。

両作品には内容的にも共通するものがあります。どちらにもリー・ヴァン・クリーフが出ていること? クライマックスの決闘が1対1ではなく第3者が加わった形になっていること? エンニオ・モリコーネの音楽が鳴り響き各シーンを盛り上げること?いえいえ、それも確かに共通項ではありますが、もっと重要な共通点があります。それは、階級闘争の視点があるということです。

★ 「世の中には2種類の人間がいる」という言葉の意味
「世の中には2種類の人間がいる」と言えば、その2種類とは、「支配する者とされる者」、「持てる者と持たざる者」、「資本家と労働者」という階級の区別をただちに意味するということは60年代の当時においては自明の常識でした。当時としてはあまりにも明白なことであったためにことさら記録などされることがなく年月が経ち、今では忘れられてしまっているだけです。有名な言葉でありしばしば引用されますが、本来の意味を伝えていない間違った引用があまりにも多い。たとえば「エルヴィス派とビートルズ派の2種類の人間がいる」というタラティーノの引用では、階級という概念が消えてしまっています。

『続・夕陽のガンマン』では3回このセリフは出てきますね。最初は「ロープを首に巻かれる奴とそのロープを切るのが役目の奴」です。両者の分け前は同じですが、楽をして金を儲ける側はどちらでしょうか? どちらが危険な労働でしょうか? 2回目は「ドアから入る奴と窓から入る奴」です。雇ったのはどちらの側で、雇われて捨て石にされたのはどちらの側だったでしょうか?そして最後は「銃を構える奴と穴を掘る奴」。3つのケースすべてにおいて2種類の人間とは階級の違いであることがわかります。そうそう、ダメ押しのようにこういうシーンも用意されていました。「兄貴は頭がいいから坊主になった。俺は生きるために泥棒になった」そう、テュコとラミレス神父の会話です。兄弟でありながら2つの別の階級に属することになってしまった両人の再会はほろ苦いものでした。

『復讐のガンマン』ではもっとはっきりした言葉でこの階級が語られます。すなわち「金持ちと貧乏人」。主人公のメキシコ人クチリオは、アメリカ人の牧場主から無実の殺人罪を押し付けられ追われる身となります。「法律は金持ちのためのものだ。オレたち貧乏人のためのものじゃねえ」というその言葉は、60年代における反体制・反権力の思想を端的に物語るものでした。こういう階級闘争の結果がどうなっていくのかが、どちらの映画にも描かれているのです。

★ 60年代の時代の空気とマカロニ・ウエスタン
『復讐のガンマン』ではこの階級闘争が劇的な展開を見せます。主人公クチリオを演じるのはトーマス・ミリアン。見るからにラテン系の風貌がメキシコ人・クチリオの役にぴったりでした。このクチリオがいっさい銃は使わないのです。ロープに石を結んだ武器を振り回して投げつけて敵を倒したり、あるいは1対1の決闘においても銃よりもナイフを選んだりします。これはゲリラの戦い方ですね。一方クチリオを追いつめる牧場主の側はどうでしょう。各種の武器を揃え、まるで狩りを楽しむかのようです。オーストリアだかドイツだかの男爵も殺しのプロとして登場。まさに支配する側、殺す側の象徴ですね。黒人を弾圧するアメリカ南部の白人警官や、ベトナムや中南米における米軍を思い浮かべるのは深読みのしすぎでしょうか。60年代という時代相においてはそういう見方も成り立つと思います。

当時のヨーロッパの左翼インテリたちは、アメリカ国内で人種差別と戦う黒人たちに声援を送り、ベトナム戦争でアメリカ帝国主義と戦う「北」を熱烈に支持しました。そして革命という急進的な方法論によって世界をよりよい方向に変えることができるという、今にして思えばナイーブなロマンを彼らは信じていました。そういった時代の気分が、映画の中にも色濃く反映されているのが読み取れます。この『復讐のガンマン』のラストのオプティミズムはどうでしょう。同じ時期のマカロニ・ウエスタンの中には、メキシコを舞台にそのものずばり革命を扱ったような作品も何本か撮られていますが、ほとんどが同種の無邪気な革命讃歌を謳っています。

★ レオーネ作品の世界
レオーネの作品はこの点に関してまったく異なります。『続・夕陽のガンマン』では2種類の人間の関係は、映画の最初と最後で少しも変らないのです。「ロープを首に巻かれる」側の人間であるテュコは、最後まで「穴を掘る」側の人間のままでした。階級の構造は元のままです。ラストシーンでブロンディが縛り首のロープを切ってやるのは映画の最初の方と同じことをしているわけで、オープニングとラストで世界は結局もとのまま、何も変っていないということを暗示しているわけです。そう言えば『荒野の用心棒』も、流れ者のジョーが2大陣営の真ん中に位置するということで(相手は変りましたが)オープニングとラストとで世界は変りません。『夕陽のガンマン』でも、モンコは引退などせずに賞金稼ぎを続けるように見えます。このように何も変らないのがレオーネ作品の世界なのです。

革命によって世界をよりよい方向に変えることができるという安易なポピュリズムとは一線を画するものですね。このような他のマカロニとレオーネ作品とのスタンスの違いは、『夕陽のギャングたち』において劇中人物に明確な言葉で語られています。ジョンは「革命は1つで十分だ」「もうダイナマイトしか信じない」と言ってますし、フアンも「本が読めるやつらが革命だと騒ぐが、本が読めないやつらは死ぬだけ」と言ってます。レオーネは階級闘争には何のロマンも見出してはおらず、革命はただ男たちのドラマの舞台として描かれているだけなのです。映画の冒頭で毛沢東の「湖南農民運動視察報告」から一節を引用していますが、「革命とは階級闘争である」という言葉を恣意的に引用し「革命とは暴力行為である」というふうにニュアンスを変えているのが象徴的です。

南北戦争についても同じことが言えそうです。他のほとんどのマカロニ作品は南軍びいきです。わが国の明治維新にたとえれば、新選組や会津藩びいきということになりましょう。すなわち、体制に反逆した側、負けた側への深い共感があります。ところが『続・夕陽のガンマン』は違います。南軍兵士が捕虜収容所で虐げられるシーンもあるが、橋の攻防戦ではヒューマニズムあふれる北軍大尉も出てきます。南北どちらかを特にひいきしているわけではない。極端な話、北と南を入れ換えてしまっても話の本筋は変らないのですね。砂ボコリで軍服がちょっと白っぽくなっただけで見間違うぐらいのもの。それぐらいレオーネにとっては、両者とも代わり映えのしないものなのです。それより北も南も関係なしに突っ走る登場人物たちにこそ主眼があるのであり、南北戦争はその背景として描かれているに過ぎないのです。

★ 「支配される側」の反撃
このように、『復讐のガンマン』をはじめとするマカロニ諸作品では革命に対するロマンや希望が託されているのに対して、『続・夕陽のガンマン』以下のレオーネ作品では階級闘争の視点はあるもののそれは最終的な勝利には決してたどり着かないという違いがあります。とはいえ、両作品とも階級闘争そのものがテーマであるわけではもちろんないので、このような違いは実はたいした差ではありません。両作品ともに、「虐げられた側」であるテュコやクチリオを主役にすえて、そのバイタリティあふれる逞しい生き方を描いており、そういう共通点の方が重要であるように思われます。そしてこの点こそが、両作品の意外な評価の低さの原因の1つのようです。たとえば二階堂卓也氏の『マカロニ・アクション大全』(洋泉社1999年刊)を見ますと、『続・夕陽のガンマン』については「イーライ・ウォラックという俳優が結果としてイーストウッドとクリーフを食ってしまっては困るのだ」(pp.200)と述べられています。『復讐のガンマン』についても、「ミリアンにしてやられる場面が目立ち(中略)かなりのドジを踏む。こういう“失敗”はクリーフにあまり似合うエピソードではない」(pp.215)と同様のコメントです。テュコやクチリオなど「反逆する側」が活躍する姿は氏のお好みではなかったようです。

しかし彼ら「支配される側」「虐げられた側」の反撃を描くことはマカロニならではの大きな特徴の1つなのです。ただの反権力のメッセージなら実はハリウッド西部劇にもありました。いわゆる西部開拓は、個人個人の力の総和によってなされたとも言えます。そこで培われた徹底的な個人主義はアメリカ人の精神的支柱となっており、このため彼らは巨大権力や巨大組織を嫌う傾向があります。ハリウッド西部劇が建国の誇りを歌い上げナショナリズムを鼓舞したのは実は1940年代までに過ぎません。1950年代以降の西部劇は、たとえば、大牧場主に対する開拓農民の戦い、北部パワーに対する南部人の意地など、反権力の視点が明確に表に出てくるのです。しかしそれは同一体制内のエスタブリッシュメントに対する反撃にすぎなかった。アカ嫌いのアメリカではさすがに反体制の概念はありませんでした。

そして1960年代。マカロニ・ウエスタンが階級闘争の視点を初めて西部劇に持ち込んだのです。最初のころこそスタッフも俳優もみな英語の変名を使い、ハリウッド西部劇のように見せかけていましたが、立て続けのヒットに自信を得て、アメリカにはないヨーロッパならでは独自性を徐々に作品に込めるようになった、その1つが階級闘争の概念でした。そういう意味で、これこそ60年代にヨーロッパで生まれた、マカロニならではの特徴の1つであったとも言えます。これをヨーロッパの大衆、とくに労働者階級の人々や若者たちが圧倒的に支持したのです。

考えてみれば、マカロニ・ウエスタンそのものが、ハリウッド西部劇という正統に対する異端の側からの反撃であり、体制に対する異議申立てであり、そして映画史における革命とも呼べるものでした。テュコやクチリオの活躍に人々が熱い声援をおくった時代。あれから時は流れ今や21世紀。グローバルスタンダードとやらいう美名の下に、アメリカによる文化侵略が着々と進められる時代になりました。今がそんな時代だからこそ、あの何もかもが熱かった60年代に思いをはせながら、これらの作品を味わうのも意義のあることだと思う次第です。そういう意味で今こそマカロニ・ウエスタンを見直す時なのです。VIVA! マカロニ・ウエスタン!そして最後に、こんな駄文を掲載して下さったWEBマスターりおなさんに感謝と敬意を表わして、VIVA! りおなのワイドスクリーン!

〜FINE〜
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