上記よみ「色何れも赤土色也」            「按北扈従」挿絵

記念館所蔵品

 本草学という学問がある。もともとは薬用植物の研究であったが、江戸時代には植物のみならず動物・鉱物等自然界のあらゆるものに対する興味・研究として発展した。明治になって博物学といわれるようになり、今は植物学・動物学・鉱物学・・・と細分化されている。
 武四郎は旅から旅への生活の中でこの本草学の知識を身につけていった。日誌や野帳の記事やスケッチから学者といっていいほどの深さがしのばれるのである。野帳というのはフィルドノートのこと。彼はこれに見聞きしたことをその場で速い筆致でメモやスケッチとして記録し、後日これを整理して奉行への報文にしたり、稿本にしたりするのである。そしてできる限り出版する、いわばルポルタージュ作家であった。
 安政3年の「丙辰日誌」中の「按北扈従」(樺太の調査紀行・箱館奉行への報文)に上掲写真左のスケッチをしている。「土殷けつ」(けつの字はタイトル参照)とある。一般に「高師小僧」と呼ばれる管状の褐鉄鉱である。形状は他に芋状・枝状・独楽状・団子状といろいろあるようだ。川や沼地・湿地の葦などの根の回りに水中の鉄分が沈殿して固くなり、やがて核になった根や茎が腐り鉄の塊だけが残るのである。産地は全国的に散在するが、特に豊橋市付近の高師原のものが有名である。高師原はもともと「高葦原」で、核になる葦が生い茂っていたのである。地面に背丈数センチの小僧たちが並んで立っているように見える処から「高師小僧」と名付けられたとか。下痢止め・血止めの薬になる。
 「土殷けつ」について武四郎は、日誌や書簡に何ヶ所か書いているが、まず「按北扈従」から見てみよう(松浦武四郎記念館刊「武四郎日誌 按北日誌」107ページ)。

 ウエンコタンより凡二里と思わる。浜形巳向にして小石原なり。海辺にて巾十五六間、然し数尋の様に深さは見えける故、一同に眺望致し、渡り難き事をしり、如何とするに、クロスケの申に、五六丁も上に浅瀬の有る由なるに付、先西岸赤土崩の下に到り、是を伝ひ行に、此崩岸に小さなる穴多く有、我等到るに驚て穴より燕多く飛出し、ひらひらと我が頭の辺で散乱する事幾若干ともしれがたし。是より倒木を数十ヶ所越て水際に出しに、小石原に、先に図せし如き貝石族々として寄たり。又此処にて其多きに驚き、是迄袖に入れしも皆投棄たり。行々また赤崩の下にて、一歩を過たば数尋の深淵に陥んと欲する危所なるが、是を腰限り入て渉り越せしに、此水底一面の埋れ木の様に見えたり。一なりとも取らまほしく思えども、其処にて一歩辷りなば如何とも致し難く、雪解の水の腰の上に及びて浸ること故、其冷たきは冷し、遅躊するに、土人等此処さえ越なば最早先きは恐るゝ処なしとの言に励まされて漸々に越、少し穏なる崩岸に出たるに、上より赤土崩落て椴の木根侭に倒れ、其下を潜り、また其上を跨ぎ等行に、土中より土殷けつを一拾得たり。是ぞ不思譲と思ふに、此方彼方見廻す内、纔時に二三十も得。其品他に産する物より質悪く見えたれども、何処も如此迄多く産する処を聞かず。其も此処にて土殷けつを探したるは開闢以来誰も無故に、多きや否等思ひ居る間に、また枝の有るをも得たり。
 扨此
土殷けつは、我が故郷勢州一志郡雲出川にては狐の火吹竹と唱え、同郡子森村並安濃郡納所村の裏の川より産するもの並志州注連の浦より出る等、雲根家是を狐の小枕と名づけたり。其余江州山田の石亭子は、山城、大和、河内、摂津、肥前、幡州、淡州、江州の品凡三十余ヶ所のを集めたりとかや。・・・・・扨其に付て其産する因縁を考しに、是は赤土に木の枝が凝着しものならん。其凝着は後に木腐朽して消せしものなり。其品水辺に有て其穴迄水にて洗ひ流せしなり。依て我が雲出の川すじより産するもの水によく洗ひ晒され管となる故に、穴まで甚だ能通したり。小森村より出るものは穴多くは埋もりたり。此処の品は水中にて得るは中能通り、崩岸より掘出せしは木枝未だ中に存せるもの等をも見たり。是にて漸其産する処を解たり。

 次は翌安政4年「丁巳日誌」。これも箱館奉行への報文である。北海道出版企画センター刊「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」上488ページから引用しみよう。

 ホロムイ 左の方砂浜一ツ突出する也。此処能き砂地なるが故に上りて昼飯致すに、其川原小石接り。鍛冶の鉄糞の如き塊の石有。また砂接にて土陰けつを見当りたり。凡火を焼間に一椀余を得たり。土人此土陰けつをトイチイと云よし。此辺の土人等其を治泄瀉と云へり。

 そして「土陰けつ」の注として「蘭名コールドと云ものなるべし」と記している。この公的日誌に基づいて大衆的な読み物を何冊か出版しているが、上記該当個所は文久元年(1861)出版の「天塩日誌」にも薬効の説明付で載っている。

 さて次は右の写真であるが、これは松浦武四郎記念館所蔵の「土殷けつ」である。2センチから5センチの管状のもの4個を紐で通し、「明治年間雲出川ニテ拾得せる土陰穴」との墨書の付箋がついている。他に「土殷けつ及び土玉」というのもあって、これには「雲出川ニテ得る土陰穴」という付箋がついている。上記幕末期の旅行に際し、土殷けつを入手したこともあったかと思われるが、これは明治期、雲出川畔のものである。雲出川流域のどこかで土殷けつ(土地の言葉で「狐の火吹竹」)が出るのは幼少年時代の見聞・体験で知っていたのではないか。少なくとも幕吏として蝦夷地に入る前、嘉永年間にはすでに知っていた。それを示すのが次の書簡である。佐七は彼の兄、専次郎はその息子。

松浦佐七、同専次郎宛書簡・嘉永4年3月頃(松浦武四郎関係歴史資料目録234-06)

当三月四日、仙台上野唯庵士へ一封相託し申候。如何に御座候哉、其節相頼遣し申候、雲出川 土陰穴 狐の火吹竹 五六本計ひろわせ送り被成候。是は心安きものより望れ申候。
一、吉原並山谷行書状慥に相届申候。又夜前も山谷へ行、夜中迄種々話し居候処、此節にては手習子も三十人計有之、大に都合も宜敷由、又久保村之三番目をもらひ度よし話し被成候。定て拙者当秋か冬上り候節委敷被話候事と存候。久保二番目白木店へ被参候由、病気にて当二月六日出立之由、道中大に案じ居られ申候。扨、百石之図と申もの友人に頼れ上梓仕候間、一本送申候。御請取可被成候。
尚狐の火吹竹之事願候。早々謹言

 「狐の火吹き竹」送付につき尚書までして頼んでいるのはおもしろい。この書面には、兄佐七も「狐の火吹竹」について分かっているという前提がある。土殷けつは「狐の火吹き竹」という名称で雲出川流域の人々に取ってなじみのあるものだった。土地によって呼び方はさまざまで、キツネノマクラ・キツネノロウソク・クダイシ・ツチダンゴなどとよばれている。


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