オフィス街(紫)

上海・南京 見た 撮った

 従軍とは歩くこと
 
  佐藤 振壽(元毎日新聞記者)


 一夜が明けると12月14日の朝だ。筆者が昨夜寝ていた建物は、中山門内の中国軍将校の社交機関・励志社である。
 (中略)
 そんな時、連絡員の1人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせてきた。何事がよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。
行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。
 中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には5メ‐トル平方、深さ3メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。
 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまザかせて、後頭郡に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、回転して穴の底へ死体となって落ちていった。
 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。たまたま穴の方へ歩かせられていた一人の中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた目本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。
 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世昇にいるようだ。戦場で敵を殺すのは、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人間を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せないのだろう。
 後で仲間にこの時のことを話すと、カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったかと反問された。「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。
 このような事件を見たのは筆者だけではなかったようだ。東京から第百一師固に従軍するだめ、大阪から同じ軍用船で上梅へ渡った記者伸間に「東京朝日」の足立和雄君がいた。
 阿羅借一著『聞ぎ書・南東事件』(図書出版社刊)の中に足立記者との次のような問答が記されている。
−南京で大虐殺があったといわれていますが、どんなことをご覧になっていますか。
「犠牲者が全然なかったとは言えない。南京へ入った翌日だったから、十四日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国兵を射っているの見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区内ではなかった。」
 筆者が見た場所と足立記者が見た場所は、同じ場所ではないようだ。しかし、同じ十四日の出来事であった。

 さて筆者が目撃した場所はどこであったのか、大きな門の写真を撮ったが、その門の上には「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営門の両側の哨舎のうち、右の構舎には「伊佐部隊・棚橋部隊」、左の哨舎には歩哨の陰になっているが棚○○、捕虜収容所、占獲集積所」という文字が読める。「駐軍八十八師司令郡」の白いレリーフの文字は黒色に塗られていた。その下には横長に「青天白日」のデザインがレリーフになっている。八十八師といえば、中国軍の中でも蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。
 ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている「伊佐部隊・棚橋部隊」とは、上海で勇戦し感状を受けた第九師団歩兵第七連隊第三大隊の通称である。

「従軍とは歩くこと」 南京戦史資料集II p610〜P612
 十二月十六日は晴天だった。社の車を使えたので、南京住民の姿をルポするために市内を走り回った。そして南京城外北東部にある玄武潮の風景写真を撮ったりした帰途、難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。車を止める助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装していた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。この時の状混が『南京戦史」の歩兵第七聯隊(金沢、伊佐部隊)第二中隊の昭和八年兵・井上又一氏の日記にくわしく書かれていた。

壱拾弐月拾六日
 午前拾時から残敵掃蕩に出かける。高射砲一門を捕獲す。午後又出かける。若い奴を三百三十五名を捕えてくる。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れて来るのである。全くこの中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。新間記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来る……十重二十重にまし来る支那人の為、流石の新間記者もつひに逃げ去る。

 難民区から敗残兵を駆り立てた時の様子が如実に書かれている。便衣に着かえた中国兵を〃処断〃する情景を書いた他の兵士の日記もあるが、私は現場を見ていないので評論する資格がない。私が自信を持って書くことができるのは、この眼で見た八十八師の営庭での敗残兵の〃処断〃だけである。

 
十二月十五日午後八時三十分発令の「歩兵第七聯隊作命甲第一一一号」には、
 一、本十五日迄捕獲シタル俘虜ヲ調査セシ所二依レハ殆ト下士官兵ノミニシテ将校ハ認メラレサル情況ナリ、将校八便衣二更へ難民区内二潜在シアルカ如シ
 二、聯隊ハ明十六日全力ヲ難民地区二指向シ徹底的ニ敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス憲兵隊は協カスルハズ

 歩七の戦闘詳報によると、十二月十一二日から二十四日の間に敗残兵六、六七○人を刺射殺したと記されており、その大部分は十六日に処断されているが、それは歩七の前述の作戦命令によるものである。歩七聯隊長・伊佐大佐の日記をみても、
 「十四、五、六日ノ三日間デ六干五百人の敗兵ヲ厳重処分ス」と記されている。
 歩七の参戦者とは『南京戦史』編集委員が再度会談し、当峙の状況としては掃蕩命令を忠実に実行したとのことであったが、最近(昭和六十三年末)同師団の土屋正治氏の質問に対し「今にして思えば、聯隊長の当峙の状況判断については、痛恨の情に堪えない」と答えられた。【南京戦史331ぺ−ジ】
「従軍とは歩くこと」 南京戦史資料集II p618〜P619

 
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